系統だった読書をひごろ心がけていないので、具体的な作品や出版状況をとらえてベストをあげることは困難であるため、ごく私的に印象的な事件の多発した年として、ベストとさせていただきます。
『ノヴァ・クォータリー』が5年ぶりに復刊とお聞きして、キャリアの差をしみじみと感じてしまいました。当方は5年ほど前に、やっと始動し出したところなのですから。
わたしにとってのベストSFイヤーは、1984年です。初の(いまのところ唯一の)世界SF大会参加、初のイベント企画参加、伊藤典夫さんへの初お目見え、やっと完成の「プリティ・マギー・マネーアイズ」翻訳、京都SFフェスティバル初参加、SF研会誌外への初の執筆、ファンダムというものへの初の積極的参加、なによりなにより、プロという言葉が自分と結びついて考えられた初めての年……。
大学SF研に参加を続けていたとはいっても、弱小大学の弱小研究会。翻訳志向の友人もなく、自分の仕事の客観的な評価を知る機会もなく、井の中の蛙そのままの存在が、その前年あたりから、少し変わってきていました。
SFMに掲載された巽孝之さんの評論を読んで、座って聞いているだけなら怖くはないだろうとSFセミナーに出席し、女性参加者全員紹介で前に出されてしまったことは、シャイでばかりはいられないと自分に言い聞かせ、<ぱらんてぃあ>に参加するという大転機に続きます。
家族の猛反対で、シカゴでの世界SF大会に参加しそこねたことは、腹立ちまぎれLOCUS誌定期購読と、<ぱらんてぃあ>を通じての同行者を得たロスアンゼルスでの大会につながりました。
友人の結婚を機に、翻訳家の知り合いができ、怯えつつも口をきかざるをえないはめに追いこまれたことが、伊藤さんにお目見えしたときの耐性になったに違いありません。
なにもかもが、1984年に、大きく変わったような気がします。
その年まで、翻訳は、端的にいって、自分ひとりだけのためにやっていたに過ぎませんでした。もちろん、ファンジンとはいえ読者あってのものという意識はありましたが、自分の好きな作家を訳す、ひたすらそれが目的で、反応のなさはほとんど気になっていませんでした。
外に出たことがないというのは、困ったものです。もっと勉強しなければ、と思いはするものの、SF関係の知り合いといえば、SF研の友人だけで、創作志向の人ばかり。ファンダムというものにいまだに部外者意識をいだいているのは、この時期の長さによるのでしょう。SFファンを自覚してから、15年間も井の中の蛙だったのです。わずか5年で、そうそう別人にはなれません。
イベントがらみの話ばかりですが、英語のSFをまとめ読みしたのも、ハーラン・エリスンを別にすれば、1984年が初めてでした。せっかくヒューゴー賞の投票資格を得たからには、候補作をちゃんと読もう、と思ったのです。ただし、まず間に合わないだろうからと、長篇は始めから除きました。そうはいっても、どうやって現物を手に入れよう、と思っていたら、ある方がコピーを山のように下さいました。
<ぱらんてぃあ>に顔を出していたくせに、ほとんど原書を読んだことがない不埒者が、これでほんの少しし自信をつけました。長篇でも原書で読めるかもしれない、と思いだしたのは、さらに後のことです。とはいえ、読書速度の遅さはあいかわらずで、おまけに勤勉でもないときては、たかの知れた量にしかなっていません。
本当なら、この年どんなSFが出版されたかに触れて、ベスト・イヤーを考えるべきなのでしょう。けれど、これはいまでもそうなのですが、最新の動きというものにあまり興味がないため、出版年によるベストは選べません。ごく少数、つねに動きを追いたい作家はいるものの、日本語でも英語でも、手元に本があるだけで、読まなくても満足してしまい、出版からかなり遅れて読むことがしばしばあるのです。
いかに意識がアマチュアであるかを強調するだけのベスト・イヤー選びになってしまいましたが、1984年までは、アマチュアという言葉さえ意識しない小心者だった、という打ち明け話でした。
5年前にデビューという文章を読んでも、なんとなくそんな気がしなかった。ずっと昔から、お茶の水女子大SF研関係で、活躍していたような憶えがある。お茶大は、女子大SF研の老舗である。編者は、阿部敏子さんとは、あまりお話しをしたことがない。セミナー合宿での、巽孝之氏との論争も、最後までつきあっていないが、一時期は風物誌と呼ばれたことがある。今回は、KSFA関係者外からの視点で、原稿をお願いした。エリスンと伊藤典夫さんの、熱狂的ファンというのは有名。