青井美香
いま思えば、なんで大学でSF研に入ろうとしたのかわかりません。
でも、あの日、1977年4月21日、大学生になりたての私は電話をかけたのです。当時、日吉の代表だった2年生の御供(ミトモ)さんに。
あのころ、ずーっと女子校で育ってきたわたしにとって、共学の、それも男性が圧倒的に多い学部で授業を受けるのは、非常につかれるものでした。なんで、文学部に行かなかったんだろう……と、真剣に悩んだりもして。でもまあ、せっかく入学したのだから、と気をとりなおして、せっせっとキャンパスに通う日々。(ああ、真面目だったのねわたしって)
そんな気の小さなわたしがなんで女性の、これまた少ないクラブに入ってしまったのでしょう。
なんのことはない、たんにSFが好きだったから……なのです。
いちおう、ハインラインの『赤い惑星の少年』を読んで、SFをおもしろいと思った、というのがわたしの公式見解。でも、実は、小学校1年生のとき、図書館で読んだターザン・ブックスのほうに影響を受けているのかもしれない。(なにしろ、初めて買ったハヤカワ文庫が『類人猿ターザン』だったりするもので……)
高校時代は女子校というせいもあって、まわりにSFを読む人もいず、わたしは軽い欲求不満の状態でありました。もっとも、『指輪物語』を読んでいる人はいたから、ファンタジイの話はけっこうできたのだけど。
と、そんなわけで、1977年4月、わたしは慶応義塾大学のSF研究会に入会したのです。
煙草の煙がもうもうとたなびく、渋谷の喫茶店《ライオン》での例会。一生懸命ガリきってこしらえた(うっ、時代を感じるなあ)ファンジン『天狼』。三田祭の展示発表(わたしは全然手伝わなかったけど、8ミリ映画も作っていましたっけ)。
気がつくと、SF研にどっぷりつかっていたのです。
翌年、1978年の5月には、女子大生SFクイズ大会などという、恐ろしいTV番組にまで出てしまい、栄えある最下位を記録。(ちなみに、このときの優勝はお茶の水女子大でした)
こうして大学4年間、わたしはぬくぬくとSF研にいつづけることになりました。
そして……
いま、SFはわたしの仕事となってしまいました。
毎日、SFを読み、さわり、ときには足蹴にし、ときには寄り添い
家に帰れば、ミステリのやまのなかからSFを拾いだし、頭をいい子、いい子となでてやる……
1977年のあの日、赤いポストで御供さんと待ち合わせをしなかったら、この、いまにつながる時間線は存在しなかったにちがいありません。
『スター・ウォーズ』が公開され、ピンク・レディーが『UFO』をヒットさせ、SFがグッとメジャーになるかと思えたあの、1977年から1978年にかけての、騒然たる一時代 でも、わたしの脳裏に焼きついているのは、本でも映画でも歌でもなく、日吉のいちょう並木の上の、抜けるような青空なのです。
あの日、あの年、わたしにとって、SFが本当に大きな意味を持ち始めた……そんな気がするのです。
1997年の付記:会社を辞めて、はや六年。あっちこっちでちょこちょこ仕事しながら、ぼーっとしています。最近は、ちょっとSFから離れてしまって、もっぱら夢中になっているのは香港映画とプロレス観戦。でも、年に一回のワールドコン参加もすっかり定例になりつつあり……結局、一生SFから足を洗えそうにありません。
昔から、大学SF研というのは、あまり外向きではなかった。たいてい内部で充足してしまうので、どんな人がいて、どんな活動をしているのかなんて、ほとんど伝わってこなかった。特別な人間関係があれば、別なのだが。そういうわけで、青井美香と出会ったのは、彼女が早川書房に入ったあと、水鏡子や大野万紀やらと遊びにいったとき、お茶をいれてくれたのが最初だった(1983年ごろ)。翻訳系ファンジンとのつながりも、入社後である。「ぱらんてぃあ」の清書担当や、業界内ファンジン「新少年」(1985〜87)のゴシップネタなどに、頻繁に登場するようになった。現在は、文庫担当の中堅社員。 |