1972年 浅倉久志

 おまえにとってのベストSFイヤーは何年か、というおたずね。今年だ、いや、来年を見てくれ、というような答えができればと思いますが、悲しいかな、もはや、もはや、そんな元気はありません。

 迷いに迷ったすえ、1972年を選びました。今から17年も昔の古〜いお話です。

 1972年とはどんな年だったのか。年表を調べてみました。米中国交回復、あさま山荘事件、宇宙人宛てのメッセージをたずさえたパイオニア10号の打ち上げ、テルアビブ空港の乱射事件、ミュンヘン・オリンピック、日中国交回復など。そして、ベトナム戦争がやっと終わったのが、翌73年のことです。

 SFに目を移すと、SFマガジン以外の専門誌はNW−SFだけ。まだ奇想天外(第一期)も、SF宝石も、SFアドベンチャーも生まれておらず、ハヤカワSF文庫の青背すらなく、SFマガジンでは、「新幻魔大戦」(平井和正&石森章太郎)「産霊山秘録」「幻覚の地平線」が連載され、エリスンやラファティの特集が組まれていました。アメリカSF第何回目かの黄金時代がピークにさしかかろうとしていたころです。

 そこへ、モンスター・レイディことジュディス・メリルがやってきました。1970年の国際SFシンポジウムで生まれた日本SF英訳プロジェクトのために、半年の予定で来日したのです。たしか3月のことでした。

 まもなくメリルが東小金井のアパートで自炊生活をいとなむようになり、日本側の協力者である矢野さんや伊藤さんのしっぽにくっついていったり、ときにはひとりでいったりして、メリル詣でがはじまりました。まあ、相手がとてもつきあいやすい人だったので大助かり。商店街へ買い出しのおともをおおせつけられ、和英辞典を片手に野菜や魚の英語名について御下問に応じたり、ひとつ屋根の下で恐怖の一夜を明かしたのも今は懐かしい思い出です。当時は、いまよりもうすこし英語がしゃべれたような気がしますが、これはたんなる幻想かもしれない。

 時間のあまったときは、東京の洋書屋めぐりをしたり、山野さんのところへ遊びにいったりして、めいっぱいSFしていました。あのころはわたしも若かったのだ。

 かんじんの翻訳プロジェクトはともかくとして、その半年間にまなんだことは、いまふりかえってみると、すごく大きかったようです。唯一の心残りは、ついに出なかった最後の『年刊SF傑作選』(1967年版)の収録予定作品を教えてもらうという約束だったのに、結局聞きだせなかったこと。

 ということで、1972年のベストに移ります。

 翻訳短篇は、好都合にも「ノヴァ・マンスリイ」4号にこの年の採点表が出ているので、最高の85点と80をつけた作品をそこから抜き書きしました  

 翻訳長編は、あいにく当時のインデックスがないので、なにが出たのか不明。自分の訳書で気がひけるが、著者と何度も打ち合せをして、せいいっぱいがんばった本なので、それを挙げることにします。

 浅倉さんには『ヒューゴー賞完全リスト』(1975)の序文を書いていただいた。その前は、神戸大学SF研時代に、SFマガジンで紹介してもらったこともある。大きなはげみになった。KSFA経由で、プロ翻訳家や編集者が生まれたのも、もとはといえば、浅倉さんや伊藤典夫さんの注目があったためである。狭い世界のことだから、ほんのちょっとしたことで、プロになったり消えてしまったりする。プロとアマとの隔絶は、アマ側から見ると大きい。少しでも溝を埋めるという意味で、ノヴァ・マンスリーのような形態のものが、それもアマ主体のものが、重要なのである。

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