1987年から、88年へ
小谷真理
1988年8月から9月にかけて、わたしは、仕事の合間をぬって、たびたび伊豆へと出掛けていった。
骨休めということもあったけど、何よりもまとまった時間を手にしたとき、ひさびさにやむにやまれぬ熱情のようなものが、わたしをつきうごかしたのだ。恋ではない。「書くこと」への欲望が襲いかかってくる……これは怠惰なわたしにしては、とても珍しいことであった。
Fワード。かりにそれをこう読んでおこう。Fは FantasyのF、FeminismのFである。そのFなるものは、ながいことわたしの心のなかの一部分をしめていた。別々に、である。それから、SFもこれとは別にながいことわたしの心のなかにあったものだ。それらが、ある日、突然急激にひとつのものに収束していく。すごい快感だった。「書くこと」が、これほど自分にとって神秘的に思えたことは、はじめてのような気がした。
セクシュアリティ、あるいはジェンダーを扱った作品には、ふたとおりあって、片方は、友人や、同居人の男性SFファンによって、すごいなと知らされるもの。もう片方が、むしろ男性たちから、ちがったレスポンスがひきだされるためにかえって?なる興味を惹いてしまった作品である。前者は、ティプトリーや、リサ・タトル、それにウィリスの書いたものなんかもそう。どちらかというと、ヘテロセクシュアル的なあばきかたで迫力のある女性作家の作品は、同姓には「あったりまえだのクラッカー」などと思われてしまって、なかなか気付きにくいものだとおもう。たとえば、リサ・タトルの「妻たち」という話は実をいうと、なんの気なしに読んでしまったのにいっしょにくらしているオトコの方が、青い顔をしていたりするもんで、慌てて読み返したりして「あ、なるほど」とおもったのだ。『フェミニズムの帝国』も「男たちの知らない女」も「わが愛しのむすめたちよ」も直接的な衝撃はなく、むしろ、ショックをうけた男性の反応をみて衝撃を受けてたわけだから、これは、二次的なものといえるかもしれない。
ところが、タニス・リーというひとの作品は、そうでなかった。彼女の作品は、いつもわたしにとって、衝撃的だった。最初に読んだ短篇「白い魔女」からしてそうなのだが、何か、私の心の中で、女性性といったときにイメージされるものをずばり指しているような気がしたのだ。淫ビな言い方を許してもらえるなら、ホモセクシュアル的な魅力があったということかもしれない。
1987年、7月ハヤカワ文庫SFから『銀色の恋人』が出たので、そく本屋にとんでいって買った。待つのももどかしく、本屋のエスカレーターの脇で、輪ゴムをビッととり、まずうっとりと表紙に見とれ(実は川原由美子も大好きなのである)お大事なプレゼントを開けるみたいに、ゆっくりとページを開いてみた(すこし誇張が入っているような言い方になってしまったな…でも雰囲気は言い尽くされていると思う)。
「うっ」と思った。
こりゃ、やばい、とも。
そのままそっと本をとじると、わたしは、急いでその場を立ち去り家にかえって、本棚にしまってしまった。それから、読もうと何度か挑戦したのだけれど、つらくなってどうしても途中でぶん投げてしまうのである。実は、これを書きながらも「われながら恥ずかしい」などど思っているのだが、当時はもっと真に迫って恥ずかしかった。悶々としてたら、今村徹氏がSFM一1月号のレヴュー欄に、この本を取上げておられた。氏の意見が、あまりに誘惑的だったため、またもやわたしは「うっ」とか思い、「氏は議論を望んでおられるのかもしれない」などというおよそありもしない、大胆かつ一方的な妄想に毎日、ふけってしまった。もちろん、そうした中で次の月のSFMのテレポート欄には、熱心な女性読者によるお便りもちゃーんと載るのである。うーむ、こうなると抵抗できないじゃないの。というわけで、もうれつおしゃべりしたい気分のわたしは、つらさを来たるべき快感の妄想にかえつつ、ダッシュして読んでしまったのだ。
こうして翌年の夏、わたしは、『銀色の恋人』を中心に、タニス・リー論とカップリングして、一夏の経験を楽しんだ。わたしの目論見は「ロボットと少女のラブ・ロマンス!」というキャッチフレーズを「純粋培養マザコンむすめと男根的母親の愛と相剋の日々」に読み替えることであった。あのアグネス論争が追い打ちをかけたわけではないけれど、88年5月にアイケンバウム&オーバックによる『フェミニスト・セラピー』が出版されるなど、フェミニズム関係の本が、多数出版される状況もラッキーだった。ついでいうなら、アメリカで、マーリーン・S・バーという人が、87年に、フェミニズム批評や精神分析批評を基礎とした Alien to Femininity という女性SF論集を出しており、70年代後半よりさまざまに模索されていた、本格的女性SF評論の時代が到来したのかとも思い始めていた。ファンタジーとSFの作品を量産し続けるこのタニス・リーという、希有の作家を思索する試みは、しだいにFワードとSFを再考する試みへと収束していったのだが……最近、いってきたワールドコンで、 “Fat,Feminism,and Fandom” なるパネルを見、Fワードが肥満しつつある現状を見たように思った(錯覚かもしれないが)。いずれにせよ、87年と88年が、わたしとFワードにとって思い出深い年であったのは、間違いない。
最後は、小谷真理氏でしめくくられる。ローラリアス時代に、セミヌードでコスプレをしていた小谷真理(不必要な無駄)と、SFアイとフェミニズムの小谷真理(必要な無駄)という、2つの無駄の間には、巽孝之氏以上の謎が横たわっているのである……。(編者としては、あえて言及は避けたい)。もっともこの文章では、後者にしか触れられていないけれども。