この特集には、明確に否定的見解をもった方々もいる。
たとえば、評論家・翻訳家の中村融氏は、いまこそがベストであって、ベストイヤーを設定するために、過去を振返ること自体を拒否する。過去の形骸より躍動するいまを、もっと深く分析すべきだ、いまにすべては含まれる、という意味だろう。まえがきでも触れたが、氏の見解は、現代の感性に、もっとも近いものだといえる。
一方、「ファーサイト」発行人でソラリスのマスター川合康雄氏は、それとは別に、ベストイヤーは未来にあるのだという見解を持つ。過去を振り返ることは、単なるノスタルジイにしかならない。SFの将来は、まだ終っていない。たずさわる自身の将来も、当然終っていない―-本特集でも、何人かの方が、同様の考えを表明している。
過去はすでに過ぎ去ったものであり、たとえ振り返るにしても、現在につらなる1つの地点にすぎない。そんなものが、ベストであるはずがない……。
しかし、ベストイヤーを選ぶことは、単に過去、現在、未来を択一することと、あきらかに違った意味の選択となる。それは、選択者自身の感性を問うものである。「ベストイヤー」という言葉から、なにを連想したかで、答えが決まってくるからである。ある者には、それは楽しかった思い出であり、ある者には、SFの潮流を予感させた年である。前者にとって、ベストイヤーは過去であるが、後者にとっては、現在から未来へとつらなる流れの、みなもとなる。原点をどこにもとめるか、それがこの選択の答えである。分岐点からの道が、袋小路であっても、無限大への第一歩であっても。いや、もちろん、どちらであれ、答えに優劣はない。それぞれの選択がなされた背景を、うかがい知るだけである。「まだ、みえない年」は、原点をどこに置くかで、あらゆる時を網羅する。それは、失われた選択肢であり、将来を約束された生命線である。
そこで、最後に、読者の皆さんにも選択をお願いしたい。ベストなる年はいつになるのか。過去か、現在か、未来か。この中のどこかに、無数の立場から選ばれうる、ベストなる時が潜んでいるはずなのだ。