1971年

宮城博

 『SFマガジン』の定期購読をやめてから、もうだいぶたつ。読みたい海外中短篇や、あとあとの参考になりそうな評論・エッセイ・レビュー類があるおかげで、今でも2号に1冊ぐらいの割合で買ってはいるのだが。実際、店頭で手に取ってみて、「オッ、今月はなかなかリキが入っているな」と思わせる号もないではないのだ、マジな話。それなのに……ねェ。

 いま『SFM』って、とっても“疲れる雑誌”なんだな。個々の小説やノンフィクションの出来を云々する以前の段階で……。

 みんな(「みんな」って、いったい誰を指すんだろう?)気づいていないのか、それとも分からず屋の石頭といわれるのが怖いのか、ひょっとして言っても仕方がないとあきらめているのか──最近の『SFM』って、中途半端にガキっぽいんだ。

 ぼくが大キライなものの一つに“マンガ・イラスト”の起用がある。たぶん、ディッシュの「いさましいちびのトースター」あたりから始まったんだろうけれど、いまやそれが雑誌の過半数を占めようかと言う勢だもの。べつにマンガ家としての吾妻ひでお(その他も含めて)が悪いと言ってるんじゃないよ、わざわざ書くのもアホらしいけど。物事にはTPOがあるという、あたりまえのことを言ってみただけサ──。

 フム……TPO、ね。考えてみりゃ、マンガ・イラストって今の日本の若手作家(の大部分)にはお似合いなのかもね。彼らの作品って、要するに、“字で書いたマンガ”なんで、なにも小説仕立にする必要なんてないんだもん。──いっとくけど、べつに私はマンガを軽蔑しているわけじゃない。(積極的な興味もないが)。本来マンガで表現したほうがいいものを、わざわざ文章にして、人様に読ませるようなこともないと思うんだけど……?

 御説ごもっとも。ところがですねェ……。

 「幼児的で何が悪い」といって開きなおれるところが、今の時代の手に負えないというか、どうにも困ったちゃんなんである。ハァー。

 このごろ私はよく考えるんですね、「成熟」とか「大人になること」の意味や価値観が問い直されるのはマァいいとして、それが即「だから子供のままでいていいんだ」ということに短絡してよいものかを──。いや、ガキっぽい、ということでいえば、このオレだっていろいろヤバイ部分は持ち合せているんだろうけどさ……あるいは、その部分こそが「おたく」と呼ばれるのかもしれないね(そして、ある部分は死ぬまでそこに留まったままなんだろな、という半ばアキラメにも似た気持ちがある)。

 でも──でもですよ。たとえ自分が幼児的な部分を持っていたとしても、それはそれで仕方がないけれど、表現活動に携わる人間が、それを対象化しないまま、ムクのかたちで、公衆の面前にタレ流していいものだろうか。

 ポスト・モダンって、ウンコタレの時代か。

 で、雑誌の表向きトーンが“ヤング雑誌”化する一方で、ヘヴィな翻訳ものや、お固い記事が載っていたりする。

 その両者の落差の激しさが、最近の『SFM』は疲れると感じさせる一番の原因になっていると思う。これな何も私だけじゃないよ。『SFM』は月によって買うときと買わないときがあるという人間は私の周囲に何人もいるし、何年前だったか、石原博士がエッセイのなかで、昔からの読者で『SFM』の購読をやめる者が増えてきた、と書かれていたのをハッキリ覚えている。

 ぼくの見たところ、抜きん出た雑誌というのは、種々雑多な素材を掲載していても、全体として見れば、自然と一つのカラーを生みだしているものだ。『広告批評』しかり、『ミュージック・マガジン』しかり。今の『SFM』にはそれがない。SF一般と同じで、『SFM』も、時代を映しだしているというよりも、時代にひきずられているんだね……。

 おっと。本来のテーマがどこかに行っちゃったみたい。各人にとっての“ベストSFイヤー”だったよね、コレ。

 むかしむかし、たぶん70年代の前半ぐらいまでのことだけれど、『SFM』を読みはじめるという行為にははっきりと一つの通過儀礼(イニシエーション)としての意味があった。自覚的でないSFファンから、意識的なSFファンへ脱皮する、という──。それまで漫然と、手当りしだいに、目につくSFの単行本・文庫を読んでいた人間が、ある日雑誌売場の片隅に置かれたハイブラウな表紙に気づき、ためつすがめつした末、意を決してレジに持ってゆく……(“その本屋さんは『SFM』と『SMM』を一緒に並べていました”──ハハッ)。彼はその時点で、子供のSFファンから大人のSFファンへの第一歩を踏みだしていたのだ。そのうちの少くなからぬ者にとって、それはまた多かれ少なかれ思春期とクロスしていたであろうことは、想像に難くない。目の前に新しい世界が待ち受けているという予感──振り返ってみたとき、その“新しい世界”に見えたものの大半は、手前勝手な思いこみにすぎなかった、という痛みはあるにしても  を伴った、『SFM』との密月時代。それが一つの黄金時代だったというSFファンは、決して少なくないはずだ。1971年だったな、ぼくが初めて『SFM』を買ったのは──。

 (実はもう一つ、87年のワールドコン参加に始まる“第二の黄金時代”というのがあるのだが、SFファンという立場から見たとき、もう一つスッキリしないものがある。SF自体はリアルな手応えを失って、その抜けがらだけが空中に浮かんでいる……)

 この特集で、現状に対して、“NO!”を明確に叫んでいるのは、宮城博だけである。過去の思いでを語るには、まず現実を否定しなければならない──これは老人の論理である。しかし、同じ論理でも、老人の繰言にみせないところが、宮城博たるゆえんなのだろう。かつて、『スターウォーズ』に狂躁するSF界を激しく糾弾し、“無敵のパフォーマー”として勇名をはせた。無意識に、全体主義的(多数に流されやすい)になりがちな、日本SF界には、貴重なキャラクターである。

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