1969年1月

谷甲州

 なんとなく、左翼文学ふうのタイトルみたいになってしまった。実際、ちょうどこのころ東大安田講堂の攻防戦などがあって、世の中は結構騒然としていた。ベトナムではランボーが現役で戦っていた最後の時代で、安田講堂とおなじころに拡大パリ会議なんかがはじまっている。かと思うと3月には中ソ国境で両国の軍隊が衝突し、4月になるとチェコでは「プラハの春」が冬の時代に逆もどりし、秋にはリビアでクーデターが発生してカダフィ大佐が政権をとってしまった。こう考えると、世界中が騒然としていたような気もする。

 これだけ世の中がごたごたしていたんだから、それをSF的に解釈して伝奇小説のひとつも書いてみたい気もするが、実際はそんなに重大な年でもない。しらべてみれば、もっと派手な事件が続発していた年もあるはずだ。

 まあ、そんなことはどうでもいい。「ベストSFイヤー」のことだ。タイトルのとおり、私にとって海外SFのベストイヤーは、1969年ということになる。

 もちろん1969年がベストだといっても、アポロ計画とは無関係だ。アポロ11はこの年の7月に人類発の月着陸を果たしているが(考えてみればあれから20年もたってるわけだ)、私としてはボイジャーが外惑星に最接近した年の方が重大だ。派手な宣伝のわりに、アポロ計画はたいした知識をもたらさなかった。だが、ボイジャーがなかったら書かれていなかったSFも多かったはずだ。

 まあ、そんなこともどうでもいい。そうではなくて、1969年は私にとっての私的なベストSFイヤーだったのだ。それも、海外SFの。

 その1969年があけたばかりの冬のことだ。正月はおわったが、まだ冬休み中だったと思う。17歳の私は、「2001年宇宙の旅」(アーサー・C・クラーク。このころのタイトルは宇宙のオデッセイだったか)を手にしていた。正月というので、高校生でも単行本をまとめて買い込める程度には裕福だったのだ。「2001年──」は、そのうちの一冊だった。

 最初のページをめくったのが夕方で、6時間後には読みおえていた。途中、大いそぎで飯をくった以外は本を手放さなかった。そして本を手にしている間中、私はぶっとんでいた。頭がスパークして、他のものが眼に入らなかった。眼が活字に釘づけになったまま、先へ先へとページをめくりつづけた。その興奮は、読み終わってからもつづいた。それまでに読んだどの本よりも、それは刺激的で興奮させられる本だった。

 もちろん、この本以前に映画はあった。映画『2001年宇宙の旅』が公開されたのは、その前の年だった。今から思えばずいぶん古くさいタイトルのこの映画は、公開された当時、難解な映画だと評判だった。SFファンの間では「この映画を理解できるのは、真のSFファンだけ」といった言葉が、まことしやかにささやかれていた。

 普通なら、そんな難解な映画は一般受けしないものだ。だが、この映画は別格だった。原作がクラークで監督がキューブリック、それに当時としては破格の特撮技術と綿密な科学考証、そしておどろくほどリアルな未来世界の映像、さらにだめ押しとして大作映画の代名詞としてのシネラマ映画。これだけそろっていたから、映画評論家も無視できなかった。そして当然のように、普通の評論家がこの映画を理解できるはずがなかった。今でもこの映画に対する見当ちがいの映画評は、オールドファンの間で語り草になっている。

 そんな見当ちがいを、17歳の私はにやにやしながらみていた。伝わってくるいろんな話を耳にしながら、「俺ならこの映画を細部まで理解できる」とひそかに自負していた。そして劇場公開がおわりかけたころになったころ、ようやく映画館に足をはこんだ。実は映画をみる前に、翻訳のあるクラークの小説にはひととおり眼を通しておいたのだ。そしてクラークを理解したつもりになって、勇躍映画館に乗りこんだ。

 その結果は──さっぱりわからなかった。

 うわさどおり、映画のストーリーなどまったく理解できなかった。無理にわかったような顔をしようにも、「SFを知らない人が、おかしやすい間違い」については、それまでさんざん聞かされていた。結局、肩を落として映画館を出るしかなかった。

 しかし、これは当然のことかもしれない。だいたい17やそこらのガキが、クラークを本当に理解していたのどうか疑わしいものだ。オールタイムベストだといわれて、なんとなく読みあさっていただけの話だ。その当時の私は、ジュブナイルでないSFを読むようになってまだ1、2年のビギナーで、時期的には日本SFシリーズの刊行がはじまったころだ。だから、ただもう熱気におされるようにして読みとばしていたのだ。

 そして、翌1969年の正月に小説版「2001年宇宙のオデッセイ」と遭遇することになる。たしかオビに「映画をみてから本を読もう」とか書いてあった。そして、それは本当だった。ただ単に、イメージを映像として先にみていたからばかりではない。理解できなかった映画の、謎ときの興味だけで読みすすんだわけでもない。いまでもクラークの新作がでると、とにかく読んでしまう魅力がその本にもあったのだ。

 クラークは、印刷された文字の裏側に山ほどの事実をかくしている。さりげなく書かれた一行から、念入りに構築された世界がかいまみえてくる。それは、あらゆる分野の科学技術に精通していなければ、できない技だ。

 それをわからずに「くさったクラーク」なんぞという奴は、俺が相手になってやる。かかってこんかい、こら。

 谷甲州氏とは、眉村さんがショート・ショートコンテストをやっていた、チャチャヤング時代(1971年ごろ)の同期生である。といっても、実際に話をしたのは1981年で、氏の帰国の合間をぬって、神戸の喫茶店で会った憶えがある。以来、特にKSFAと関係が深かったわけでもないが、セミナーやらSF大会やら、イベントがらみでお世話になった。今回も、作家の立場ということで、お願いした。甲州氏をふくめて、ハードSF関係者で、クラークを悪くいうものはほとんどいない。やはり、「くさってもクラーク」なのだろう。

Digital NOVAQの目次へ