砂漠の神皇帝
デューン4
フランク・ハーバート (早川書房1984/3刊)


SFアドベンチャー
(1984年7月)

godemperor.jpg (6128 バイト)
(ハヤカワ文庫版カバー)

“デューン”は、日米どちらにおいても、(六○年代、七○年代と紹介時期の遠いはあるが)それなりの問題提起を、あるいは話題提供をしてくれた作品である。既に、20年間ロングセラーを続けている。日本で翻訳されてから数えても、もう12年が経ち、SF初体験がデューンだった読者、リアルタイムに知った読者は二十代半ぱ以上――年末には、何度も企画に上っていた映画公開もある。まずは、堂々の歴史を有する作品だ。古い古いと思っていた“ファウンデーション”が30年の歴史なのだから、(意外にも)それほどの差はない。少なくとも、大きなブランクはなく、『砂の惑星』(1965)、『砂漠の救世主』(1969)、『砂丘の子供たち』(1976)、 そして『砂漢の神皇帝』(1981)と順調に書き継がれてきた。

 物語は、『砂丘の予供たち』の時代から、遠い未来にはじまる。『―子供たち』の終りで、メランジの大量投与により、体質に変貌をきたしはじめていたレトU世(ポウルの息子)は、3500年生き続け、今ではもう、人間から掛け離れた存在となっている。それは、アラキスの緑化計画で滅んでいった、シャイ・フルド=砂虫(サンド・ウォーム)の姿に似ている。わずかに顔と手を残すのみの数メートルに及ぷ巨体――そして、強力な予知能力と過去の人々の意識の集合体――レトは大帝として君臨し、今や全域は、レトの平和と呼ばれる沈滞状態にあった。しかし、彼自身は、現状に満足できず、真の人類の明日“黄金の道”を目指そうとする。折りしも、何代か続いたクローンのダンカン・アイダホが、彼に銃を向けて死に、新しいダンカンが訪れる。そして、イッグスの大便フウイ・ノレエの着任、反逆者シオナの登場と、安定した世界は少しずつ動きはじめる。

 最初期のデューンは、発表当時の社会風潮を反映して“生態学的SF”といわれたけれど(作者自身もそういう意図を含めて書いていたのだろう)、事実上は“権謀術数渦巻く宮廷ドラマ”といえるものだった。第一部、『砂の惑星』は、プロットがそういう権力闘争を中心に組み立てられていた。しかし、シリーズが進むにつれて、“ドラマ”の部分はしだいに影を潜め、人間同士の静的な対話が中枢に置かれるようになる。ただ、ハーバートの持ち味はもともとその辺りにあるのだ。例えぱ『ドサディ実験星』を見ても分かる。えんえん続く対話は、確かに派手さには欠ける。欠けはするが、会話を進めていくことで、世界の秘密の意味が、しだいに明らかになっていく。だが、同じ会話中心の、アシモフ『ファウンデーションの彼方に』ほど、無意味な饒舌は少ない。アシモフの場合、小説は分かりやすくあるけれど、登場人物が平板すぎて、会話に魅力が乏しいのだ。

 本書の場含、大帝レトと登場人物たちの会話が大半を占め、物語の進みは遅い。権謀術数云々も、相当シンプルになっている。レトに対するグンカン、フウィ、シオラ、モネオ(シオナの父、レトの待従長)らの葛藤が主題である。ここで語られるのは、支配者レトの謎めいた論理だ。本書を面白い読めるかどうかは、このレトの論理の読み方にかかってくるだろう。特異な支配体制――メランジの寡占と、女性のみの軍団フィッシュ・スピーカ―ズなどなど、――その中でレトは何を目的としているのか。

 ところで、デューンはこの先どんどん続く。今回で第四部、次回から主人公が変わって第五部、第六部と続いていく。既にストーリーの面白さで読むシリーズではなくなったけれど、どういう新味を与えてくれるのか、楽しみではある。