アメリカSF界随一の“過激派”ジョアナ・ラスの代表作である。
4人の女性人(フィーメール・マン)がいる。――1人の名はジャネットといい、男の死滅した世界から、今の世界を訪れた。1人はジーニインといい、もう一つの現在、戦前の情勢を残す多元宇宙の住人だ。1人はジェイル、彼女の世界では、男と女の間で戦争が起っている。最後の1人――彼女の名は、ジョアナという。
男のいない社会、女が男の下に押し込められた旧態依然の社会、男と女が互いに殺し合う社会、あるいは、今我々のいる社会。各々の社会に住む女たちは、何を考え、どんな価値観を持っているのか。この4人の出会いは、何をもたらすのか……。
“女性解放SF”と聞いて、どんなイメージが湧いてくるだろう。極端な話、女コナンが男の首を刎ねて回る話ぐらいで、言葉から出てくる連想なんてそんなものだ。以前に本書が、ほんの少し紹介された記事でも、「男どもをブッ殺せ」とか何とか、かなり無責任な惹き句がついていたように憶えている。しかし、まあムリもない。実際のところ、この『フィーメール・マン』を楽しんで読み通せた読者がどれだけいるのか、疑問に思うこともあるのだ。僕自身、一息に読めたわけではない。印象はどうだっただろう。投げ出した? 一人よがりだ? 確かに、あまりいい返事は期待できないようだ。けれども、僕にとって、やはり本書には魅かれるところがある。
『フィーメール・マン』は、「変革のとき」にはじまり、「わたしは古い女」で終る、長篇小説である。「変革のとき」は、ハーラン・エリスン篇のオリジナル・アンソロジイ『危険なヴィジョン』に収録され、ネビェラ賞を受賞した短篇で、男が疫病で死滅し、女だけが生き残った世界に、また再び男が帰ってくるという内容。女のみで構成された社会と、異種族である男との出会い(異様な最初の接触=ファースト・コンタクト)が描かれている。一方、「わたしは古い女」は、やはりオリジナル・アンソロジー『究極のSF』に発表されていて、美しい男の奴隷を飼う女の生活を(セックスを中心に)男女の役割逆転として描写したもの。これらを、冒頭と末尾のエピソードに配し、出来上ったのが本書だ。表面的には、フェミニズムを謳ったアジテーションと、読めるかも知れない。が、著者の意図がどうあったにせよ、作品を読んだ感想は、妙に掴みどころのない、曖昧なものだった。あらすじとして語れるような流れが、あまりない。短篇の段階では確かにあった、設定の必然性すら、ともすれぱ失われがちになっている。こう書いてしまうと、どこが面自い、と言われそうだ。ただ、少なくとも、スト−リー的な面自さとは違う。
アメリカSF界には、女流作家の巨匠が3人いる。御三家の筆頭は、『闇の左手』以来、多くの賞を獲得し、もっとも人気の高いル・グィン、次席は優れた物語性と緊密な文章で知られるウィルヘルム、3人目が本書のラスである。ル・グィンには、まず思想性があり、それが物語を律することも少なくない。ウィルヘルムの視点は、もっとずっと個人寄りになるが、小説作りは3人の中で群を抜いている。それでは、ラスはどうなのか。端的に言って、物語の組み立てはうまくない。そして、小説の主題、“女性解放”の主張もまた、常識的な域を出るものではなかった。しかし、ここに
1つ、重要なラスの特質が浮かび上ってくる。それは、著者の肉声とも感じられる文体だ。ストーリーを混乱させ、主張を弱めてしまう裏に、意識の反映である文体がある。『フィーメール・マン』は、9つの章から構成されている。第2部の冒頭と、第8部の冒頭に、「私は誰?」という問いかけを置き、ちょうど対称形を成すように仕上げられている。ここでの「私」とは、著者の直接の分身、ジョアナを指している。従って、以下に書かれた物語は、自己の探索の、さまざまな過程を表現したものといえる。もっとも存在感を持つジャネット、彼女は一人で生きていく術を知っている。物語の中で、彼女の社会の有様は、何度も登場する。しかし、私=ジョアナは、弱いジーニインとジャネットとの間を、不安定に揺れ動いている。第八部ではじめて顔を見せるジェィルは、その一つの解かも知れない。そこでは、男と女は決して相容れない――何しろ戦争しているのだから。本章の原形である「わたしは古い女」、単独で読むと、なんだこいつ男のハレムが欲しいのか、なんて感想しか出てこなかったのが、夢想の一形態として、落ち着いて見えてくる。だが、これも「私」の捜し求めている、正しい解ではなかった。
本書は、客観的視点から書かれた小説では、もちろんない。たしかに、4人の女性を登場させてはいる。けれども、4人は同じ頭文字
J
を持つ、著者の分身である。一人称で語りかけ、また3人称に変わり、意識は4人の問をきまぐれに移ろう。読み進むうちに、この文体のリズムと、著者の連想との関連が分っていく。七○年代のさまざまな実験小説の中にあって、本書が生き残れたのは、文体が評価されたからだ。しかも、文章だけではなく、全体の章立てにも、このリズムは生きている。
はじめにも書いたが、ラスの思想的な主張は、ル・グィンやウィルヘルムに較ぺ、一貫性を欠いている。ウィルヘルムが『クルーイストン実験』で見せる、残酷なまでに徹底した男女問の落差は、少なくともラスの持味ではない。それにもかかわらず、なぜ、例えぱ「変革のとき」に見られるようなSF的設定を殺してまで、いわゆる女性差別間題を語ろうとするのだろう。原因の一つに、七○年代の流行がある。社会約流行の下で書かれた産物と、見なせるわけだ。しかし、不思議にも、不完全で感情的主張が何度も繰り遠されるうちに、成程、これはまぎれもなくジョアナ・ラスの見方だ、作りものの空虚さのない見方だと、納得できる一面が出てくる。『フィーメール・マン』の魅力は、まさしくそこにある。だからこそ、本書は、女性解放のアジテーションとも、多元宇宙物のバリエーションとも違う――そして、だからこそ、万人にはおすすめできない、独特の殻を着た作品となってしまっている。僕は、七○年代を反映する注目作と思ったが、誰もがこう読むとは考えていない。けれども、ラスの作品が、他にないユニークな位置を占めているのも、間違いのない事実なのだ。
ラスの文体を日本語にするのは、以上のような理由もあって、ひどくむずかしい。不可能ではないにせよ、それに近い。ウィルヘルムやディッシュの翻訳などで定評のある、友枝康子氏にとっても、本書はいささか難物だったようだ。しかし、また不可能が可能になった。『フィーメール・マン』が、日本語で読めるという、これだけでも喜ばしい。 |