ジョン・バースを論じようとするなら、結局、メルヴィルやホーソンら、アメリカ伝統の流れを汲む、物語文学の作家に位置付けるのが、正当な見方であるらしい。物語文学とは、つまり口承、ロ語りに連なる小説で、思いつくままにお話を紡いでいく形をとる。従って緊密な構成はなく、さまざまな話題が雑多に盛り込まれたものになる。バースの作品『酔いどれ草の仲買人』や本書などは、意識的にそのような形式を取っている。我国では、SFが物語文学の復権という論拠から、論じられる機会が多い。前回にも書いたけれど、『吉里吉里人』にSF大賞が与えられたのも、そのフレームで捕えることができる。だが、不思議なことに、『やぎ少年ジャィルズ』に対応する作品は、SFプロパーの領域には少ない。どこか異質の部分がある。
まず第一に、本書は、現代社会をデフォルメした“キャンパス”に舞台をとる。これは、SFのデストピア物に近い設定といえる。しかし、もともと風刺を目的とした誇張と異なる描き方が、本書ではなされている。――いや、現代社会との対照はむしろ明快なのだが、それ自体が目的ではないのだ。本書とSFとの類似点が、例えば、主人公ジャィルズの出生の秘密(コンピューターWESCACと人間の処女との子である)云々の、設定から生じているとすると、かなり瑣末な共通項といわねばならない。
第二に、バースは、デピューした五○年代未から六○年代にかけて、主流派のバーナード・マラマッドや、ジョン・アップダイクら“リアリズム”に対抗する、“アンチ・リアリズム”派の立場にあった。現実社会の描写であるリアリズムは、読み手の発想の飛躍を要しない。――わかりやすいのだ。アンチ・リアリズムは、読み手に、いくらかの努力を課することになる。特にバース辺りは、プロフェッショナルな読み手のために書く、と言い切っている。SFも、その発想を受け入れるか否かで、読み手を峻別してきた。けれども、SFはあくまでも大衆小説の分野に入る(この場合の“大衆”は、広範囲な読者を対象とする、という程度の意味だが)。そうである以上、実験的な要素は、限らずしも受け入れられない。六○年代のSF界に広がった、二ュー・ウェーヴが下火となったのも、それが売れなかったことが最大の要因である。アンチ・リアリズムには、実験的な部分が強く含まれている。だから、ロ語りであり、実験であるという、相反する要素が交り合った本書は、かなり異質な印象を与えるはずだ。
さらに、本書の読後感を複雑にする要因に、神話のパターンが上げられる。バースの作品の主人公が、神話のパターンをなぞることは、研究者の指摘するところだ。バースは、それを逆手にとって、神話そのもののパロディをも狙っている。『キマイラ』にも見られる手法である。本書以降、バースの実験面は、しだいに強化されていく。ここまでさまざまな実験と、エピソードの叩き込みができるのは、一種の余裕と見てもいい。バースは、その実験を繰り返せるだけの読者と、固定評価を既に得ているからだ。少し違うかも知れないが、SFプロパーの筒井康隆による、『虚人たち』以下の作品群が、文学側のバースに対する立場にあるように思える。
SFと、アメリカのニュー・フィクション(バース、ピンチョンら)は、リアリズムから離れていく過程で、一領域を交叉させている。ただ、それをSFのカテゴリーに含めることで、どれだけの収穫が得られるのかは、まだよく分からない。巽孝之流の“メタ・フィクション”が、答の一つであるのだろうが。
*本書は1992年に国書刊行会から再刊されている。 |