アンナ・カヴァン(サンリオ1985/2刊)


SFアドベンチャー
(1985年6月)

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(サンリオ文庫版カバー)

 氷が、世界を覆おうとしている。社会を人々を、あらゆるものを覆い尽くそうとしている。総ては氷である。

 ブライアン・オールディスは、その評論書『十億年の宴』の末尾で、本書を、一つの結論に取り上げている。それは、メアリ・シェリーから始められ、ちょうど対を成すアンナ・カヴァンで終わっている。

 なぜ、オールディスは、氷を選んだのだろうか。

 60年代末、1967年に、本書は書かれている。時代は、当然、この小説にも影を落としているはずである。しかし、現実から幻想――幻想から、もう一つの幻想へと、とめどなく落ち込んでいく『氷』の描写には、直截の寓意、象徴はない。ただ、表現の様々なレベルに、時代の不安が、色濃く漂っている。少なくとも、そう思える。

 夜、田舎道を迷いながら、少女の家へと、車を走らせる主人公の描写から、物語は始まる。“私”は、独白の中で、少女に対する思慕を綴る。まるで当たり前のように、少女の保護を義務と感じている。だが、主人公の、少女への思いは、常に一方的で、激しい拒絶に会う。この、とめどのない絶望感、そして、主人公の傲慢さ――しかし、全体を統べるのは、情念のせめぎあいではなく、奇妙な程の感情の欠如だ。

 なぜ、彼女は、自分を受け入れないのか、なぜ、自分は、そうまでして少女を得ようとするのか。疑問と呼応するかのように、氷河が押し寄せてくる。けれど、暗く沈みこんでいく人間達と対照的に、氷は光輝に満ちて見えた。

 軍人たちの台頭、全体主義の兆し。氷の進行は、既存の社会をも犯している。その頂点に立つ“長官”は、時に“私”自身の姿と重なり合う。主人公は、自分が重要人物であることを示唆する。だが、それはいつも、より以上の人物、長官に対する劣等感の裏返しにすぎない。

 破滅は、SFの重要な要素の一つである。安定した、揺るぎのない社会が、ある圧倒的な“力”によって崩壊し、全く別の秩序に置き換えられていく。カタストロフそのものを扱うのも面白いけれど、瓦解の過程、あるいは、新しい秩序を丹念に描き込むのが、本来のSFの姿勢だ。それなら、本書『氷』の破滅は、何を描いたことになるのだろうか。

 オールディスは言う。 「……(氷は)すべての偉大なサイエンス・フィクションとおなじく、絶望に近づいている。しかし」 、と彼は続ける。 「不可解なものをそのまま受け入れることで、それは希望によく似た盲目的な力に溢れてもいる……」

 『氷』とは、著者を蝕むヘロインの罠でもある。(カヴァンは、ヘロイン中毒で死んだ)。この、極めて個人的な破滅は、底無しの妄想を生み出す。幻想は、単なる個人的なものに、とどまらない。時代を越えて、あらゆる人々に、やがて訪れる終末を、予感させるものだった。本書は、基本的にSFではない。多くのディストピア作家たちと同じように、表現の究極が似通ったにすぎない。おそらく、オールディス自身、本書がSFの中核に位置するとは、考えていないだろう。周辺から始まり (メアリ・シェリー)、また周辺に終わる、そういった評論構成のエレメントとして採られている。ただ、著者の幻視した世界には、 (合理的ではないにせよ) 確かに整合性がある。一貫した(しかし、病的な)視点が、SFを思わせるのだ。そして、SFの人工的な創造を、どこかはみ出した迫力が、反面、SFの目指すべき、一つの理想を呈示していることも、否めないのである。