SFアドベンチャー
(1986年3月)
(新潮社 初版カバー) |
ここに、3冊の筒井康隆に関する本がある。1冊は、短編集『串刺し教授』
(虚構船団に前後して書かれた、短編、エッセイ17編を収録。夢の風景、現実と虚構との混交などを描く短編が中心)
である。残り2冊は、まず映画「俗物図鑑」、「スタア」の監督、内藤誠による筒井論
『映画的筒井論と――』(ゴダールやエノケンに対する傾倒など、筒井を論ずる上で欠かせない、映画的視点をみせてくれる。特に、対談の内容が面白い)
と、『筒井全集』の月報に付された評伝を補筆した、
八橋一郎『評伝 筒井康隆』(筒井の軌跡を、その生い立ちから現在まで、系統立ててまとめたもの。評伝である以上、当然なのかも知れないが、各時期の移り変わりが、明快に分かる)
である。これらとは別に、ロシア民話を題材にした『イリヤ・ムウロメツ』や、雑誌では研究誌「原点」の筒井特集号が、それぞれ昨年末に出ている。
最近数年間の日本作家の動静を見るならば、筒井康隆が、もっとも注目を集める活動をしていたと、考えて良いかも知れない。最近十年を(小説外に限って)振り返っても、
たとえば、かつてDAICON(参加者150名)を主催し、11年後にSHINCON
(参加者1000名)を主催。
かつてファンジンNULLを編集し、後プロジン面白半分 (作家による、回り持ち編集の一環ではあったが)
を編集。
趣味だったクラリネットを、ジャズセッションで披露。
長い間果たせなかった演劇出演を、自身の一座を率いることで実現。
ついに、映画のプロデュースまで手がけてしまうなどなど。過去の夢を現実化する、この着実さには、“マルチプレーヤー”という単語の持つ無時間性とは異質の、長年に渡る執念さえ感じてしまう。
創作活動の上では、過去の評価を自ら覆す作品を、次々発表していった。昔書いたことは繰り返さない―新しい内容で、しかも読者がついていける、ぎりぎりの線を狙う―そういう、斬新な試みである。ラテンアメリカ文学の影響下に、書かれたものも多い。ちょうどSFファンの間でも、ラテンアメリカ文学が、話題を呼んだ時期でもあったので、大きな注目を集めた。長編『虚人たち』、『虚構船団』
は賛否両論、各層から様々な評価を受けた。いずれにせよ、だれもが注目していた訳である。全集も完結し、各巻にはユニークな筒井論が、多数書かれた。
さてここで、歴史的評価というものも出始めている。これまで書いてきたことは、たとえば八橋一郎の評伝や、「原点」の特集からも窺えることなのだ。その場その場での評価しかない、(劇的な変化のない)作家では考えられないことだろう。読み手の思惑に迎合せずに、次々と変わっていった、というのが一般評価である。
ただ、常に共通しているのは、SFへのこだわりであると思える。それは、作品の表面には明瞭に出てこないかも知れない。しかし、対談や、エッセイの端々に現れる。日本SF黎明期から活躍する作家たちは、大なり小なり、SFのコアに思い入れを残している。確かにSFは拡散したが、そのまま希釈され霧散してしまうものではない。こだわりとは、そうした思いではないだろうか。少なくとも、『虚構船団』などは、SF側からの視点抜きに語りえないと思われる。これだけ広い層から論じられている風潮に、逆行する見方だろうけれど、最近の筒井論には、“SF”が不足している。 |