ミレニアム
ジョン・ヴァーリイ(角川書店1985/6刊)


SFアドベンチャー
(1985年10月)

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(角川書店版カバー)

 ジョン・ヴァーリイのノヴェライゼーション――ではあるが、物語はオリジナルだし、映画的なお話ともいえない。もともとは、短編 「空襲」 (1977)を書き延ばしたものである。短編集『残像』にも収められた原型は、他の作品に比べてやや異質な感触があった。

 事故を起こし、墜落しつつある航空機から、乗客を助けだそうとする未来の“救奪隊員”たち…。しかしそれはまた、乗客を人類の再建という、過酷な運命へ導くに過ぎない。地球全土を汚染した祖先のおかげで、未来の子孫は滅びていく。新しい血が必要なのだ。けれど、人類を救える血は、遺伝的に汚されていない、遠い祖先達にしかない。この矛盾は、価値感の違った未来から見れば、ほんとうの意味での絶望感ではない。けれど、救奪隊員の行動には、妙な空しさが残る。

 さて、長編の方はどうか。作者の興味は、疲弊し消えつつある人類の末裔たちに、昔懐かしのタイムパラドクス・テーマを加えている。時間改変は何を産むか (全員が死亡する事故に限り、救奪が可能。ただし、遺留品が遺される恐れがある) 、親殺しのパラドクスは? かくして、二重構造を持つ物語が構成される。この二重構造には、さらに、現在側の主人公ビル・スミスと、未来側のルイーズ・ボルティモアという、二つの視点が絡み合う。未来側は、これは従来からのヴァーリイお得意のキャラクターで、性差の希薄な、やや投げやりな人物。現代側も自分の立場に疑問を感じる人物なのだが、しかし逆に、組織や設定の持つアイデンティテイが強すぎ、両者の組み合わせはあまりしっくりとはいかない。

 ヴァーリーの作風は、(やや古い)70年代の感覚を色濃く反映している。けれど、それは時代風俗の直接的な描写にはなく、基本的に設定や固有名詞のもつ、雰囲気にあるものだ。現実に存在する具体的な“名前”を持った瞬間に、微妙な感覚が消し飛んでしまうのも、ある意味でやむを得ない。本書は、両者の混交をねらった、実験的な試みではあるが、必ずしも成功したとは言えないだろう。それ以外にも、外面的な欠点は多い。たとえば、本来映画を想定したはずの、視覚的な描写が不徹底であること。タイムカプセルによる謎のメッセージというのも、ちょっと観念的にすぎる。

 ただ、SFファンにとって、色々な意味でのおもちゃ箱ではあるのだ。20章総てに付けられたSFの題名、古典的なタイムパラドクス、ロボットシャーマンの奇妙な行動(最後になると、これはシマックの『都市』ですな)などなど。どう考えても、不特定多数の人向きには書かれていない。果たして、作者の意図がどこにあったのか、少なくとも、ノヴェライゼーションを書こうとしたのではなさそうである。醜怪な未来人の外見を、ショッカー風に撮る――それが、たぶん映画化の要因だろう。どう考えても、彼の創作姿勢とは関係がない。予想どおり、自分流のペースに引き込んでいる。

 もともと、作者は“遊び好き”である。未来に展開するディズニーランド、火星のおもちゃの国、男でも女でもある登場人物、総てが独特の世界をなしている。長編、短編を問わず、ヴァーリイに欠かせないものだろう。かなりリアルなお話であるべき本書でも、結局そのクセが現れた訳だ。中途半端と見るか見ないか、読み手しだいだが、こういう作者であると分かっていれば楽しめるはず。あまりロマンスしていないけれど、(ヴァーリイに、いわゆる“純愛”を期待してはいけません) 最後は不毛な愛のない世界に、一抹の光をみせて終わる。

 ハッピーエンド?