コーンの孤島
バーナード・マラムッド(白水社 1984/11)
バーナード・マラマッドのザ・デイ・アフター。変な書き方ですねぇ、もちろん、そんなお話ではありません。
ある日突然、世界が滅びる。生き残ったのは、主人公の古生物学者ただ一人。彼は、ユダヤ人であり、かつてラビを目指した経歴を持つ。なぜまた、聖書の洪水を繰り返すのか、神への問いかけは、人間の愚かしさをたしなめる、天の声となって帰ってきた。
人はもういないようだった。ただ、猿たちがいた。中でも、チンパンジーのジブは、声帯の手術を受け、喋れるようになっていた。やがて不思議なことに、仲間の猿たちも、人間の言葉を解し、喋るようになる。――一体、神は、何を考えているのだろうか。
皮肉なユーモアに満ちている。たとえば、ユダヤ教徒の主人公と、キリスト教徒のチンパンジー(元の飼い主の影響)。チンパンジーの雌との恋などなど。ただ、これらの多くはユダヤ的なもので、どうもピンとはこない。 それより、前編に漂う哀しみに、味がある。猿たちこそ、人類の後を継ぐのだと、意気込む主人公にたいして、この結末は(未来を暗示して)象徴的である。
日本国家分断
土門周平(中央公論社 1984/10)
どうして、こういつも似通ってしまうのだろうか。この作者に限らず、日本の疑似イベント物(死語かね、これも)は、少しも進歩しない。ただ、小説を意図していないのだから、これでいいのだと、いえなくもないが。
まず第一に、主人公の存在感が希薄なこと。他の誰とでも置き換えができる。というか、人物の誰もが、極めて意外な動きかたをする。すなわち、
(物語の上からでも)
必然性に乏しい。よくわからないところは、まだまだいろいろとあって、実名と仮名の混交、たとえば読売新聞はあっても朝日と毎日はないとか、首相は仮名なのに、宮沢喜一など実名が出たりする。(やっぱり、含むところがあるんでしょうねえ)。
作者が防衛庁出身なので、防衛論がそもそもの主題であるのだろう。ところが、ある日突然訪れる大地震で、日本は、フォッサマグナから、二つに分離。直後の総選挙では、なぜか東北、北海道のみ社共が大勝し、独立を宣言、ソビエトと結んで″日本民主共和国″を樹立する。だがその裏には自民党の黒幕が潜んでいて、大陰謀をたくらんでいた――こう書くと、面白いか――大部のわりに、あっけらかんとしすぎている。
99%のトラブル 高飛びレイク番外編1
火浦功(早川書房 1984/12)
以前に出ていた長編シリーズの、これは中編を集めたもの。主に、レイク、ジムの二人組と、ジェーンとの出会いを描く
「エナジー・イコール」 、「カラミティ・ジェーン」 、さらに
「99パーセントのトラブル」
など、一連のエピソードを収めている。
セックスぬき(お色気あり)、残虐シーンぬき、難しい理屈ぬきの健全娯楽路線である。(もちろん、悪口ではありません)。軽快に読めてしまう。後にわだかまりを残さない。微妙なバランスの上に立っている。これ以上軽くても、重くてもいけない。
(簡単なことではないでしょう)。
ストーリーは、コミカルなギャング物。いかにパターンを踏んでいようとも、本書の目的から、別に外れはしない。ただ、本当なら、もうすこしSF的なガジェットがあってもいいはずだ。小道具類さえ、ややもすると、現代と変わらなくなっている。やはり、SFにこだわるところに、本書のユニークさが出てくるのではないか。こだわり過ぎなのかも知れないが、あえてそう考えたい。
新しい作家達に共通する″軽さ″に、何を付け加えるのかが問題だろう。
(*2006年朝日ソノラマからシリーズ合本として再刊されている)
魔獣狩り(鬼哭編) サイコダイバー3
夢枕獏(祥伝社 1984/12)
終わってしまったけれど、本当に終わってしまったのだろうか。――という複雑な事情のシリーズ。なにせ、登場人物は(他シリーズと)混交し、まだ独立に活躍中なのだから。 ムアコックの一連のシリーズにも、おなじような趣向があるけれど、何とも対照的だ。“動”と“静”である。あくまで静謐さの漂う、破滅とデカダン(!)のムアコック世界には、極端な話、自己の意志を持つ人間など、一人も存在しない。確かに、夢枕の世界にも“運命”に翻弄される人間は、たくさん出てくるが、それでも、逆い対抗しようとする意志が見えている。運命というより、夢枕の場合、“獣性=本能”と言ったほうがいいのかもしれない。
さて、三部作の最後を飾る本書では、ついに空海のミイラへと、九門は潜行する。そこに見出だされたものは……。また、文成は獣人蟠虎との戦いで、意外な事実を知る。やがて、血と叫喚の恐るべき結末が訪れる。――しかし、やはり、これでは終わっていない。どうも、まだまだ続きそうである。終わっても終わらないシリーズ、うーむ、恐ろしく無気味な存在でありますねぇ。
(*1994年に文庫で再刊されている)
二人だけの競奏曲
赤川次郎・横田順彌(講談社 1984/10)
1981年夏号から、84年7・8号まで、ショートショートランドに連載された、15組のテーマ別ショートショートが収められている。異色といえば異色の組み合わせで、長編作家の赤川次郎に、短編作家横田順彌とくれば、それだけでも内容に興味が引かれる。
ショートショートの歴史も、これだけ長くなると、スタイルの上での技巧やアイデアは、既に尽くされた感がある。特に、我が国では、元祖のアメリカ以上に、この形式が普及しているから、感性による“瞬間芸”的な面白さ以外に、新しさは、あまり感じられない。たとえば、毎年刊行される
ショートショートの広場
を読めば、そんな新鮮さがまだ得られる。けれど、“瞬間”を持続することは、まずできない。ダレ場の許されない長さだけに、質の安定が難しい。本書のように、一定のテーマの下に書くと、さらに困難さが増す。そんな過酷な条件下で、書かれた競作集である。さて、その成果は――。SFにこだわる横田順彌の中では、
「追う男」、 「父と娘」
が、ミステリから人情話まで含む赤川次郎の中では、「白鳥の歌」
、「お札くずし」 が印象に残る。内容は、さすがに均質だ。
“SF西遊記”もの。原作が余りにも有名であるため、SF風にアレンジした例は数知れない。本書も同様の趣向のもの。新たなる旅の目的地は、女王卑弥呼の国、邪馬台国。だが、旅の行く手には、思いもかけぬ障害が待ち構えていた。さて、一行の運命は……。
もともとがシナリオである。小説としての出来に、やや問題が残る。セリフは生きているのだが、描写がほとんどない。しかも、連続ドラマを想定しているので、エピソードが切れ切れに分かれすぎている。
(全部で32章、2クール分です)。 おそらく、その昔に放映された、テレビドラマの形式を狙ったものなのだろう。ただし、アニメから(『悟空の大冒険』を越えたか)、実写まで(堺正章のドラマぐらいなら越えているかも)、
既存のものは多いのだ。どれだけの違いを盛り込むかで、勝負は決まる。――残念ながら、過去の印象を上回る場面はなかった。シナリオである以上、映像化されなければ、意味を持たないのかも知れない。
本書の内容と直接関係ないけれど、作者は、芸能関係のマネージャーで、異色の存在とか。
魔女でもステディ
岬兄悟(早川書房 1985/1)
岬兄悟の、いわゆる“願望充足型”ファンタジー。ただし、それなりの意味付けがしてある点は、なかなか立派。この人の日常感覚には、共感できる部分もあるので、本書も、妙に納得しながら読んでしまった。
三流電機メーカーに勤める、独身サラリーマンの主人公が、ある日起きてみると、傍らに裸の美少女が寝ている。覚えもなければ、服さえ見当たらない。一体どこから涌いて出たのか。しかも、ただの少女ではなかった。なんと彼女は“魔女”なのだ。かくして、異常な現象が次々と引き起こされていく。
この主人公は単純である。もう一人の登場人物、会社の先輩は、ひたすらバカ
(でオカマ)
である。ヒロインの少女ときたら、ほとんど個性がない。ただ、かわいいという描写のみ。これだけ、否定要素が多いのに、何故面白いのか――結局、作者が、総てを承知の上で書いていると分かるからだろう。何が書かれるのかは、予め予想でき、しかも裏切られる事がない。テンポや、アイデアの水準は、常に一定している。
4作中、書き下ろされた中編
「マイ・スウィート・エンジェル」 が、一番面白い。
(*本書は2001年に徳間書店から再刊されている)
森の涙
田中光二(集英社 1985/2)
一読、爽やかな印象を残す。
ブラジル、“緑の魔境”から取材を終えて帰ってきた、TVディレクター志麻明子の元に、奇妙な売り込みが舞い込む。それは、ボルネオの熱帯降雨林にひそむ、未知の類人猿を探そうというものだった。果たして、その類人猿の正体は何か、また、企画を持ち込んだ助教授、北上にはどんな動機が隠されているのか。
秘境冒険物。ただし、主人公の、都会での(わずらわしい)日常に始まって、森林破壊や、テレビの取材チームの描写等、現代の小道具がちりばめられ、類型的な展開に彩りを添えている。やはり、取材を急ぐライ
ヴァル、BBCチームの登場など、伏線の配置も形を踏んだものだ。あまり長い話ではないから、人物の心理が、十分に描けているとは、必ずしもいえない。しかし、新聞連載にしては、説明の重複が少なく、滞りなく物語は進む。作者の旨さである。見せ場もそう多くはないが、かえってこの軽量さが、バランス的に良かったのだろう。
結末は、やはり、けだるい日常に終わる。
シリーズ第二作、前回で超能力を得た主人公は、今度は舞台をアメリカに移し、活躍する。
SF映画のメカ・デザイナーとして、彼はまずロスに渡り、スタッフ達と知り合う。そこで再び、КГБ(KGB)カジンスキー機関―超能力者の特殊部隊―が、暗躍していることを知る。やがて、一行はロケハンのため、メキシコに旅立つが、執拗な攻撃を受けることになる……。
もともとバイクと、アクション小説との組み合わせを目指したシリーズである。導入部は、前作を思わせるバイクの快調さ。さらに、マヤの秘宝を捜すという、探険行が彩りを添える。超能力者は人数が増え、戦いの場面はお馴染みの超能力ものに、ふさわしくなっている。純粋の超能力物は、もう見かけないけれど、秘境探険物との組み合わせとして、面白く読める。
ただ、終盤に至って、続々と超能力者が登場するのは、 (確かに、理由付けはされているのだが)
やや無理を感じる。おそらく、今後のシリーズにつながるキャラクターなのだろう。
4冊出ている、ザ・ベスト…のシリーズのうち、本書を含むV、Wは、マーク・ハーストによる短編選集を、2分冊にしたもの。
短編からは、ディックの基本的アイデアを、そのまま見ることができる。同じ物が、無数に生み出される恐怖、
「フヌールとの戦い」 、 「運のないゲーム」 。偽物の脅威、
「たいせつな人造物」 、 「小さな町」
。本物の偽物にすぎないアンドロイドより、むしろ本音のロボットを信用するという、ディック流の発想
「マスターの最期」 、 「CM地獄」 。
長編では、この辺りが渾然と混じり合うから、一つ一つのアイデアは、さほど明確に見えてこない。しかし、現実の崩壊、偽物の跳梁等、ディックのヴァリエーションは、それほど多くはないので、単体としてのアイデアなら、本書の短編から、十分読取れるだろう。執ような繰り返しが、長編での、あの特有の迫力を生み出していると考えられる。
あえて内容を評価するなら、 (もともと一冊の本なので、分冊の善し悪しを問題にしても、あまり意味はないけれど)
どちらかというと、Vの方が内容的に面白い。
暗黒界の悪霊
ロバート・ブロック(朝日ソノラマ 1985/5)
ロバート・ブロックの怪奇アンソロジイ。合計十短編を収める。クトゥルー
(本書では、“クートゥリゥ”と表記)
ものの短編を、いくつか含んでいる。ブロックの持ち味が、だいたいどの辺りにあるかは、本書のようなおどろおどろしい短編集から、いまいち読み取りにくい。本来、TVや映画の脚本で、名を売った作家なのである。垢抜けた軽さが、どこかに感じられなければならない。残念ながら、クトゥルーものは、ラヴクラフト模作時代の産物に過ぎない。ということで、ブロックの個性を離れ、ラヴクラフト風の雰囲気を楽しむつもりで、読めばいいのだろう。模作の多いクトゥルーでは、そういう楽しみかたが、やはり基本になる。
秘密の書物を読み、悪霊に取り付かれ、呪いの地に引き込まれ云々、ワンパターンがどうにも気になる。それでも、中では、
「ドルイド教の祭壇」 、「顔のない神」
などが、まずまずの出来。
それにしても、『妖蛆の秘密』なんて、一体何冊あるのだろうか。“世紀の稀覯本”が、こうぞろぞろ出てきたのでは、余りに値打ちがありません。
デューン 砂漠の異端者
フランク・ハーバート(早川書房 1985/5)
シリーズ第五部。前回の神皇帝の時代から、さらに1500年が流れ、人類はベネ・ゲセリット、ベネ・トライラックス、そして“大離散”からの帰還者“誇りある女たち”の三陣営に分かれ、激しい確執を演じていた。そんな中、ラキス――かつての砂漠の惑星アラキスで、砂虫に乗る少女が現われる。少女の存在は、事態の突破口を暗示させるものだった。ベネ・ゲセリットは、ダンカン・アイダホのゴーラ・クローンを派遣しようとするが……。
本書の解説でも触れられているけれど、基本的に権謀術数のドラマとなっている。同じ権謀術数でも、第一作目は救世主ムアドディブに焦点が置かれていて、ストーリイを牽引しているのは、むしろそちらの方だった。今回は、ヒーロー不在の分、かえって目立つのだろう。関係自体、はるかに複雑である。人物に善悪の区別があまりない。ここまでシリーズが進展してくると、特有の用語が頻出し、なかなか読み通しにくい。世界が固定化しており、余分な説明は不要なのだ。シリーズを読んでいる人にはお薦め。そうでない人は、まず既刊をお読みください。物語は完結していないのである(!)。
スティーヴン・キングに関する、計21編のエッセイ集。
キングという作家は、アイデアに限って見れば、かなり創造性に乏しいのではないかと思われる。これまでの作品の多くが、奔放と呼べるような展開に欠けているからだ。超能力の使いかた自体、ひどく似通っている。その分、実に“執念深い”描写がある。たいていのSF作家には、これほどのしつこさは、(意図としても、才能としても)ない。この辺りは、本書でも、さまざまに指摘されている。例えば、日用品の品名を明記したり、端役一人一人にすら、何ページも経歴の描写を割いたり、夫婦や親子関係への微細な言及をしたり――。このようにして、キングは、スーパーナチュラルを日常に引き込むのだが、その先に啓示が開けることはまずない。日々の生活を破壊するものは、基本的に悪なのである。モダンホラーには、アメリカの現在、保守的な風潮に受け入れられやすい一面がある。
本書では、社会現象(いじめ、離婚、家庭崩壊)や、映像的な魅力などもからめて、キングの特質が語られる。ただ、この叢書の性格上、深い掘り下げには欠ける。
(*本書は2002年に同社から再刊されている)
トールキンとルイスは、古くから親交があった。そして、お互いの作品に、大なり小なり影響を与えあったという。それぞれの代表作『指輪物語』
、『ナルニア国ものがたり』も、当然無関係であったわけではない。本書は、その辺りから、両者の作風、各作品(『ホビットの冒険』、『指輪―』、『シルマリルリオン』『ナルニア―』、『神学三部作』、『愛はあまりにも若く』)の分析を行なっている。内容は順当なもので、分析心理学や記号論的な韜晦には陥っていない。
(実は、著者が大学の授業で扱ってきた題材を、本にまとめたものである)
。
トールキンとルイスは、どちらもSF界に少なからぬ影響を与えた。本質的には、ルイスの方がSFを指向している。ただ、宗教色の強い『神学三部作』などは、直系の子孫を生んでいない。一方、未だに人気の衰えないトールキンは、多くの(悪しき)亜流を生みだし続けている。SF界にとって、どちらが良かったかは別にして、やはり、『指輪―』の影は大きいといえよう。本書は、そういった作品群の背景を探る意味で、興味深い題材を提供してくれる。分厚さも手頃で、読みやすい。
(*本書は2006年に同社から再刊されている)
標題作が何といっても面白い。
まず、冒頭であらすじから、(なんと)最後のダジャレまでが書かれてしまっている。これは、いつもの作者の書き方を、逆手に取った始まりだ。いまさら言うまでもないが、横田流の小説には基本的に、シャレだけで起承転結全編を成立させようとする、神業的なテクニックが要求される。にもかかわらず、最後のオチを最初でばらしてしまったのだから、作者の自信のほどが窺えよう。舞台も登場人物も、初めから終わりまで変わらない。ただひたすら、ダジャレの会話が続くのみである。これはこれで、横田小説の究極の姿を示している。
ベスト2は、 「月の法善寺横丁」
でハチャメチャSFの書き方を、一人称で詳細に語ったもの。もちろん、計算もあるのだろうが、文中の開き直りがたのしい。同様に
「話にならない話」 も小説が書けなくなった作者の、自分対談(二人の自分)だけで出来ている。ただ、これの続編まであるのはちょっとやりすぎか。その他、いつものペースを含めて、最新十三編が収録されている。
ベスト・オブ・ショートショートの広場、である。1979年から、83年までに出た同書から、優秀作以上を集めたもの。総点数25,420、ちょっと想像を絶する中から選ばれた58編だ。
もともとショートショートは、偶然のアイデアから生まれてくるものが多く、誰にでも書けるという特性がある。ただし、それが優れている場合は稀だし、レベルを維持することはなお難しい。けれど、こういうコンテストでは、
(アマチュアの作家の)
一生涯一度の傑作が、読める可能性がある。そんな傑作はまず、プロでも書けないだろう。たとえば
「最高の喜び」
は、この小説形式の究極の姿に近い。二度とは出来ないだろうが。
「いたい」
は本誌でも何度か登場している西秋生の傑作。もともと主人公の感性により、異常な世界を語ることが特徴である。一発勝負ではなく、書き続けていけるのは、やはり、こういうタイプの作品だろう。
「花火」 、「“海”」 の幻想風景も同様。「愚か者の願い」 、
「アルファ商会」
は、アメリカで育ったショートショートの原点を思わせる結末 (人生模様の悲喜劇と、ブッラクユーモア)が用意されている。
オデッセイ・ファイル
A・C・クラーク&P・ハイアムズ(パーソナルメディア
1985/7)
2010年の作者クラークと、映画監督ピーター・ハイアムズとの、パソコン通信記録集。つまり、映画を製作していく過程を、書簡集風にまとめただけのものだが、その手紙は、スリランカに住むクラークと、ロサンゼルスのハイアムズとを結ぶ、電話回線を経由した、ほぼリアルタイムの(一種の)電子メールなのである。そこが目新しい。翻訳も、出版を専門とする会社ではなく、ソフトメーカーから出されている。業務として翻訳されたのか、訳者名もない
(カタログ等の翻訳と同等の扱い)。
とはいえ、固有名詞の誤りもなく、SF一般化の成果(!)があらわれている。ただし、パソコン通信の啓蒙書として扱うのは、ちょっとどうか。
さて、内容は、純粋に映画製作の話ばかりではない。クラークの島での生活
(大統領との会食云々、などなどの名士ぶり)
が窺えて面白い――というか、大半は映画自体より、その周辺の話題になっている。ウラ話風の読み物だ。しかし、次第にセットが組み上がっていく様子など、リアルタイムにやり取りされたが故の臨場感はある。確かに、新しいコミュニケーションの成果だろう。
テレポートされざる者
P・K・ディック(サンリオ 1985/7)
ディックの中期作で、過去に出ていた削除版を完全版としたもの。ただし、その修正が終わる前に、ディックが亡くなってしまったために、欠落個所がいくつか残っている。
しかし、これもまた混沌に満ちたお話である。滑り出しから、途中まではそうでもない。統一ドイツの支配する世界、テレポート装置の発明により倒産した、宇宙運輸会社のオーナーは、地球内の反対勢力と手を握り、テレポートによるバラ色の植民惑星計画の秘密を暴く――と、ここまでが半分。人物間の対立が描かれていても、基本的に矛盾はない。
ところが、主人公たちが植民惑星に侵入するや、ディック的多重(幻覚)世界により、あらすじそのものが書けなくなる。パラワールド、タイム・ワープ装置、人々の総ての運命が印刷された本と、大量のガジェットが混沌を演出している。
『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』と、『逆回りの世界』
の間にはさまれる作品で、翻訳が少ない時期のものだが、物語としては失敗かも知れない。やはり、ディック独自の雰囲気が、濃厚に現れた作品と見るべきだろう。
(*本書は1998年『ライズ民間警察機構』(東京創元社)という書名で新訳されている)
夜の声
ウィリアム・ホープ・ホジスン(東京創元社 1985/8)
『異次元を覗く家』、『ナイトランド』で著名な作者の、これは海洋奇譚集。
サルガッソーにまつわる話、漂う古代の船、カビに覆われた船、海蛇に襲われた船、表題作は映画『マタンゴ』(と書いても、おそらく知らない人の方が多いでしょう。東宝特撮映画です)
の原型をなす作品。――といった調子で、典型的な海洋怪奇物のパターンが描かれている。翻訳が待たれていた“海洋もの”なので、期待したのだが、アイデアとして特に目新しいものはなく、前述した長編ほどの迫力も希薄である。ただ、著者の少年から大人に至る生活は、船と共にあったのだから、ある意味で、日常化された世界といえるのだろう。
もともと、お話に重点が置かれない作風だと思う。長編では、終末のたそがれと、やがて暗黒がせまりくる予感――世界の設定自体が、一種の気魄をはらんでおり、プロットの平板さを補っていた。本書の場合、短い分、そこまでの雰囲気には達していない。とはいえ、一面をカビが覆い尽くした船の描写などには、他にない無気味さを感じ取ることができる。あえて評するなら、手軽でオーソドックスな怪奇小説集か。
ロシュワールド
ロバート・L・フォワード(早川書房 1985/8)
『竜の卵』の著者の第2作。毎度、特異かつ極めて厳密に考証された世界を描いている。誰もが言うように、
(人間そっくりの考えかたをする異星人も含めて)
、SF本来の醍醐味(の一つ)を、科学の粋を集め再現したものである。レーザービーム推進による、バーナード星への飛行、その惑星系、ロボット=クリスマス・ブッシュ、二重惑星を飛ぶドラゴンフライ号。どれもが、荒唐無稽ではない。そのうち、一番の呼び物は、わずか80キロの空隙を隔て、回転しあう2つの惑星“ロシュワールド”と、潮汐力で惑星間を渡る海の描写である。実のところ、本書のポイントは、そこのみに凝集されている。『竜の卵』で見られた、チーラ達ほどのキャラクターはいない。確かに、論理好きの水棲生物の存在は面白い。ただ、人間的である分
(また、年代期が描かれない分)、
印象に残らない。全体の半分は、バーナード星までいかにして到達したか、であり、また最後には各ハードウェアの説明が付け加えられている――すなわち、そういう(細部の)楽しみかたを想定した本なのである。基本的には同じであるが、前作ほど一般的な内容とはいえないようだ。 |