SFアドベンチャー1986年1月〜6月
(一部はpdfで収録)


ブラック・ジャパン
赤瀬川隼(新潮社 1985/9)

 “現未来小説”というキャッチ。現代の日本に、もしこういう設定 (黒人の日本代表オリンピック選手が、登場したら)、法律(仕事が禁じられ、総ての法規が無効になる日が、設定されたら)、辞令(ある日モデル住宅に、家族とともに、住むよう命じられたら) を持ち込んだらどうなるか。

 もちろん、どれも、日常性のレベルを越えるものではない。そういうふうに、書かれているからである。 (だからどうだ、といわれそうだが) 基本的に、本書はSFではない。シチュエーションは、確かにSF的だけれど、著者の興味は情況より、そこに描かれる人間たちの心理にある。もちろん、SFが人間を描かないというのではなくて、 (だからどうだ、といわれそうだが) 微妙に見方が異なるのである。ドラマチックな変革自体が、関心の中心ではないのだ。

 ただ、この程度の“IFの世界”は、むしろ当たり前になってきつつある。SFと付けなくても、付けてもよい範囲にある。要するに、それで話が面白ければ良いわけで、著者がどこまで踏み込むかによるだろう。本書の場合、面白くはあるが、設定を十分に生かすところまでは、至っていないと思われる。

 

ホラー&ファンタシー傑作選2
大瀧啓裕編(青心社 1985/9)

 青心社ウィアード・テイルズ傑作選の第2集。主な作家に、ライバー、ハワード、ブロックらがいる。一部、国書刊行会版のウィアード・テールズと重複しているものもある。成長ホルモンにより巨人となった小人、魔力を持つ妻に支配される男、なにもかもを石に変える生き物、魔術師に捕らえられた美少女、ブードゥーの呪いで猫に変身する少女などなど、基本的にウィアード・テイルズ誌の、基調をなす作品が、収録されているようだ。

 ブロックが異色。マッド・サイエンティストもののパロディで、軽快な喜劇に仕上がっている。ライバー辺りと比べても、本作品集の中で、もっとも古びていない一篇だろう。ハワードは、“ソロモン・ケーン”のシリーズで、アフリカの吸血鬼が群れをなして襲ってくるなど、バイオレンス調の雰囲気を出している。他に、収穫としてマクラスキイの 「忍び寄る恐怖」 が上げられる。ボディ・スナッチャー物の先駆的作品だ。得体の知れない生き物に、次々と吸収されていく恐怖が描かれている。処理の仕方はともかく、恐怖の質は、後のフィニイやディックとそう差がない。

 

シティ5からの脱出
バリントン・ベイリー(早川書房 1985/9)

 基本的には、オカルト小説集である。

 ベイリーの小説が、新しい意味でのアイデア・ストーリイである点は、だれもが指摘する通りである。新しい、といっても、奇抜なアイデアの追究ではなく、旧来のアイデアを豊満にちりばめた、現代風のスタイルが新しいのだが。――さて、それで本書はどうかというと、いや、不思議なことにオカルト小説集としか読めない。 「宇宙の探求」に出てくる理屈は、科学的ではなく、錬金術的ロジックだし、物語が第一無気味である。現代ホラー的なマーチンとは違って、“上品”さがない。大仰な“オカルト”センスなのだ。なぜ、こんな感想が涌いてきたのか、つらつら考えてみると、まず、小説が下手くそである点 (長編でもそうだったけれど、結末の付けかたがひどい)、 その分、信念と思える屁理屈の迫力だけで、物語を運ぼうとしている点、などが思い浮かぶ。ただ、オカルト小説の古色蒼然とした趣はなく、SFであるぶん近代的に読める訳である。ベイリーを評するときの、ワイド・スクリーン・バロックのバロックには、“厚顔無恥なド迫力”という意味も、(きっと)込められているのだろう。

 

SFグラフィックス
ジャック・サドゥール編(MPC 1985/10)

 『現代SFの歴史』(早川書房刊)のジャック・サドゥールが、同書の刊行と同時に出した、パルプ・マガジンのイラスト集である。 『現代SF―』が、SFの歴史書として、正当かどうかはともかくとして、著者の雑誌に対する愛情(特にパルプ時代)と知識は、十分に評価できるだろう。本書もまた、そんな思い入れの込められた一冊だ。

 イラスト自体は、原版がザラ紙に印刷されたもので、それを何回もコピーしたために、細かい線などは、大半がツブれてしまっている。フィンレイの細密画も、ほとんど面影がない。しかし、パルプ雑誌そのものが、実はそういうものだったのだ。奇麗なアート紙に、原画が美術印刷されたのでは、あまりに落差が大きい。だから、本書の絵でも、当時の雰囲気を知るうえで、マイナスとは言えないだろう。例によって、テーマ別分類と、イラストの付けられた小説の概要が、併せて解説されている。大半は、無名の作品。一部著名な小説も、イラストを見る限り、極度に古めかしい。テクノロジーを題材にした絵は、腐りやすいのである。活字の方が、まだ時代を超越している。逆に、クラシック的価値が増したといえるが。

 

スペースマン
伊藤典夫・浅倉久志編(新潮社 1985/10)

 久し振りに出ました、日本オリジナルの海外SFアンソロジー。表題通り、宇宙へと旅立つ(あるいは、宇宙で生きる)、男(女)達の物語である。過去の飛行家の希望と夢とともに、飛翔する最初の宇宙飛行士 (ブラッドベリ) に始まり、恋人の帰りを待ちわびる、宇宙港の男(ヴィンジ)に終わる構成で、色々な意味で盛りだくさんな内容になっている。オリジナルの強みだろう。スペースオペラは含まれていないので、勇者は出てこない。さまざまに、人生の哀感を背負った人々が登場する。感性としては、船乗りの物語である。それだけに終わらせないために、幾編かの純SF風設定がちりばめられている。さすがに、読み応えは十分ある。

 新しいといえるのは、三分の一程度。しかし、著名な作品ばかりが選ばれているのでもない。一冊の本にして、さらに価値を増したわけで、アンソロジーの理想的形といえる。ただ、最初から読んでいくと、ブラッドベリから 「月を盗んだ男」 に入る所で、少し引っ掛かる。順序としては、ここなのだけれど、もう一編、何かがあったほうが良かったのでは。

 

宇宙船∞号の冒険
川又千秋(新潮社 1985/10)

 “生命の目的とは何か”――本書のテーマは、実にそれなのである。本格SFの主題として、他にないぐらい壮大、かつ究極の目標である。当然、この意気込みには、読み手の期待も高まらざるを得ない。

 人類滅亡後、最後の人間の遺言を守って、アンドロイド達は、宇宙船∞号を建造し、宇宙の真理を求めて旅立つ。さまざまな星々を訪れ、生命の謎を探るうちに、ついに秘密の源が、銀河宇宙の中心にあることが分かる。そして…。

 新潮文庫のSFの場合、比較的年少者向けに、読者対象が設定されるきらいがある。(と思われる) 。けれど、本書は、特にそういうレベルの作品ではない。過去のSFの設定や、現代SFの特徴を、過不足なく取り込んでいる。SFのハードコアに迫る作品である。ただ、この長さはどうなのだろう。もっと、執拗に、テーマの本質 (でなければ、周辺にでも) 迫れたのではないだろうか。本書の結末が、答えと言えるのだろうか。確かに、答えが出るわけがないのだけれど、過去何度も繰り返されてきた、円環的結末がどうしても思い出されてしまう。

 

スタータイド・ライジング
ディヴィッド・ブリン(早川書房 1985/10)

 ネビュラ&ヒューゴー賞、ダブルクラウン。過去、こういう作家は何人かがいた。しかし、どちらかというと(受賞はしなかったが)、ニーヴン&パーネルの合作デビュー作 『神の目の小さな塵』を思わせる。

 鳴り物入りで登場した、八〇年代最新作家群の、代表格である。物語は、至って簡単。銀河文明の秘密(らしきもの)を、偶然発見した、イルカの乗り組む宇宙船が、辺境の惑星に不時着。その回りでは、銀河列強種族が、秘密の奪取をめざし、宇宙戦争を繰り広げている。そこで、意外な事実が判明する……。

 上下二巻にわたって書かれた割に、やや内容に冗長さを感じる。ただし、類型的とはいえ、イルカ、人間、チンパンジーのクルーや、多彩な異星人たちと、人物の配置はさすがに才能を感じさせるものだ。鼻につく、地球人のすること=正義の図式は、一般読者の共感を誘うはずである。

 余談ながら、こういう発想は万国共通なんですね。日本だけじゃない、ソ連もアメリカも、中国だって該当してしまう。――人類が若い種族で、短期間に驚異的に進化して、強者の一員で弱いものの味方で、云々。

 

サンディエゴ・ライトフット・スー
トム・リーミイ(サンリオ 1985/11)

 昨年(最後)の収穫に、数えておきたい作品集である。

 著者のリーミイが亡くなって、もう8年になる。その遺稿をまとめたものが本書だが、表題作は過去に紹介され、評判が高かった。合計11の(比較的長い)中短編が収録されている。内容的には、いくつかの傾向が入り混じっている。あえて特徴をあげるなら、SFより“モダン・ホラー”の色合が強いといえる。たとえば、「亀裂の向こう」 は、『呪われた町』と、書かれた時期も、お話自体も、良く似通っている。田舎町に起こる奇妙な事件、次第に増えていく死人、終わりのなさを暗示する結末……。執拗なまでの日常描写あたりが、モダン・ホラー的共通項なのだろう。

 ただし、リーミイには、キングにない、ロマンティシズムの薫りがある。怪奇物に分類できる 「ハリウッドの看板の下で」 や 「デトワイラー・ボーイ」 にも、特有の優しさが込められている。要するに、登場人物達に、(それも、本来グロテスクなフリークに対して) 作者の思い入れが感じられるのである。自分が青春を過ごした時代を、懐かしむ気持ちも、多分に含まれているだろう。冒頭、エリスンが長々と書いた“偏見”も一興。

 

無伴奏ソナタ
オースン・スコット・カード(早川書房 1985/12)

 昨年の暮れ近くになって、またまたベスト短編集が出てしまった。これで、七〇年代後期の主なアメリカ作家たち、ヴァーリイ、マーチン、マッキンタイア、ビショップらの、一通りの作風がつかめるようになったわけだ。

 本書には、長編化され、本年度ネビュラ賞最有力候補(予備投票)に上げられた 「エンダーのゲーム」 を始めとして、計11編が収められている。淡々とした残酷さ 「王の食肉」 、心理ホラー 「四階共同便所の怨霊」 、皮肉な 「猿たちはすべてが冗談なんだと思いこんでいた」 、短い寓話 「磁器のサラマンダー」 、そして哀感を孕む 「無伴奏ソナタ」 、以上が印象に残る。

 どの作品も複雑なプロットはなく、構造が単純である。人物の心理描写も、それほど深層に踏み込むものではない。しかし、情感と、無機質さとが混交した、“香気”が味わい深い。語感は異質だが、表題作には、最良時のゼラズニイの雰囲気さえ感じられる。なんといっても、軽やかに読んでいける点がよい。同じテーマでも、古い世代のSFなら、こう楽々とは書けなかっただろう。七〇年代SFの、一つの究極点にあるといえる。

 

虚空の総統兵団
川又千秋(中央公論社 1985/12)

 著者の冒険小説には、いつも何らかの趣味的一面が滲み出る。今回は、オリジナル・プラモデル(架空のモデルを自作したプラモ)のVTOL(垂直離着陸機)ミツビシVF・1が登場、メッサーシュミットと空中戦を展開する――タイムスリップ物と思いきや、一種の異次元秘境物である。

 訓練飛行に、空母を飛び立った自衛隊のパイロットは、雲海に突入後、急に現在位置を見失う。気が付くと、全く見知らぬ世界に抜け出していた。そこでは、時間がさまざまに交りあっている。そして、ナチスが秘密基地を築き、現地人を奴隷に要塞化しようとしていた。やがて、彼らの総統が訪れる……。

 プラモ趣味には、メカだけではない違った味がある。特に、ジオラマの世界は、文字通りの異次元空間を演出するもので、本書の舞台も、どこかジオラマ的風景を連想させる。フォッケウルフやメッサーシュミットが整列する、ジャングルの秘密基地、降り立つVTOL。なかなか“絵になって”面白い。題材的に気に入ってしまった。ただ、小説としては、もう一波乱 (謎解きか、派手な戦闘シーンぐらい)あって欲しいとは思う。

 

モンスター誕生
リチャード・マシスン(朝日ソノラマ 1985/12)

 マシスンのSF短編集としては、我国初の翻訳になる。これまでは、ホラー系の短編集が、オリジナルなものを含めて2冊出ていた。ただし、本書は全訳ではなく、別の単行本収録作が一部省かれている。

 1950年代最初期の作品集であり、基本的にアイデア・ストーリイばかりなので、かなり古めかしく感じる方も多いだろう。ミュータント、タイムマシンのプリミティヴなアイデアは、三十年の間に使い尽くされてしまった。それでも、性のタブーを皮肉った 「食物の誘惑」 、得体の知れない異星人の女 「異星の恋人クン」 、安すぎる家 「わが家は宇宙船」 (この訳題、もうちょっと格調があっていいように思うが) 辺りは、今日でも十分楽しめる。しかし、ソノラマの翻訳は (読者層の制約でしょうが) どうしてこう子供っぽくなってしまうのだろうか。既訳の作品集を見る限り、いくら古いといっても、マシスンは、もう少し大人向きに読めるはずである。もちろん、この作家の本領が(ブロックと同様)、映画関係のホラー、それも長編(たとえば『地獄の家』など)にある点は事実なので、短編に多くは期待できないが。

 

鬼神伝説
紀和鏡(講談社 1985/12)

 紀州天河村、ロック歌手を追った女性週刊誌記者は、その山奥の村で、超古代の民、イヒカの秘密に触れる。それは、南朝天皇の系譜につながる、巨大な謎に迫る存在だった。

 際どいバランスの上に、成り立っている作品だ。伝奇小説(超古代の日本云々)とも推理小説(死体なき殺人事件と刑事)とも、あるいは、SF(超能力者の秘密組織)やバイオレンス(村民大虐殺)ものにさえ、なりそうな雰囲気がある。たとえば政界の奥深く、勢力を伸ばす黒幕とか、もうひとつの天皇の血筋であるとか、超能力を生み出すA物質、封じ込めるB物質であるとか――時事ネタも絡めて、アイデアは豊富に投入されている。手慣れただけの、ワンアイデア・ストーリーではない点は、評価できる。ただ、そのどれでもない未消化さが、読後感に残る。何が焦点だったのか、とにかく分からない。均質であると言うより、基本的に踏み込めていないためと思われる。

 一番分からないのは、エピローグ。それまでの展開と矛盾する(あるいは無関係な)エピソードだ。一体どういう意図で書かれたのだろう。

 

イリヤ・ムウロメツ
筒井康隆+手塚治虫(絵)(講談社 1985/12)

 生れついての虚弱児で、立つこともできなかったイリヤは、ある日三人の老人たちに不思議な薬をもらい、ロシヤ一の力を得る。彼は首都キエフに赴き、ロシアを侵す敵たちと戦う決意を固めた。だが、ロシアの広大な大地には、無数の怪物、妖怪が跳梁している。果たして、彼の前途に横たわるものは何か。

 先月号でもちょっと触れているが、ロシアの英雄伝説である。浅学にして、このムウロメツが、どの程度にポピュラーな人物なのかは知らない。実在はせず、ロシアの民間伝承として語り継がれた、一大英雄であるらしい。戦前にも紹介があったから、作者もまたそういう関係で、ムウロメツを知り、本書を書くことになったのだろう。幾つかの伝承を、一本のストーリーに凝集している。さし絵は手塚治虫、語りは淡々としており、文章は簡潔、民話のスタイルを踏襲したもの。本書はパロディでもなんでもなく、きわめて正統的な叙事詩なのである。従って、読み手も、素直な見方で読むべきだろう。プリミティヴな民話は、それだけでは読み流してしまえる。どれだけの創造力を付加するかは、読者しだいである。

 

ショート・ショート劇場1
小説推理編集部(双葉社 1985/12)

 今は亡き 「SFワールド」 に掲載された、ショート・ショートばかりを、32編集めた傑作選。新鋭、ベテラン、アマチュアと、書き手のレベルは様々である。ただし、その差が明瞭に現れないのが、このジャンルの特徴になっている。アマチュアは、技法の未熟さを、アイデアで補える場合があるからだ。短編とSSとは、外見上似てはいるものの、作りかたが違っている。いろいろなケースを知るには、作者も多いほうが良い。SSのアンソロジイは、我が国では少ない。本書のようにプロフェッショナルな書き手を多く含んだ作品集は、そういう意味で貴重である。

 印象に残ったものは「あなたとコンタクト」(高井信)、「昼休みの因果律」 (梶尾真治)、「ここがユートピア」 (岬兄悟)、 「夢文字」 (渡辺直人)、「牛の日」 (火浦功)などである。不思議にも、落ちとアイデアものが中心で、雰囲気のうまさを狙った作品は多くない。短かすぎるせいなのかもしれないが。中では、川又千秋の 「虹の種族」 は短編といってよい。神林長平 「怒髪」、「とんでもない猿たち」 は、特に結末の処理に、新鮮な切れ味を感じた。

 

気まぐれな仮面
フィリップ・ホセ・ファーマー(早川書房 1985/12)

 主人公(イスラム教徒)は、異星人の神殿から、不思議な衝動に駆られて、彼らの神を盗み出してしまう。しかし、そのために、この宇宙の秘密が暴かれることになるとは……。

 時代に“乗る”のが巧みな作者である。中身に、特に一貫性があったとは思えないものの、とにかく変わってきた。それだけ、発想が豊かとも――(半面)、アイデアに溺れがちなところが多いとも言える。

 本書では、前半の神秘的な混沌が、後半に至ると、ある意味で、コミカルなドタバタに近い展開になってしまう。大きなSF的テーマを事前に用意したというより、登場人物の複雑さで物語をドライヴしているようだ。けれども、ファーマーの良さは、はったりで読者を混乱させ、一気に乗せてしまう点ではないか。結局、「階層宇宙」や「リバーワールド」ほどの(歴史に残りうる)“驚くべき”アイデアは見られないのだ。お喋りな神、三人の創造神、惑星大の破壊者、生体宇宙船と、現代SFに必須の複合アイデアはある。それだけでは、各時代で話題の中心を占めた、ファーマーらしさがない。既存の組み合わせでは、不十分だろう。

 

ゼロ・ストーン
アンドレ・ノートン(早川書房 1986/1)

 謎に満ちた指輪だった。超古代の、宇宙人のものだという、その指輪を持っているだけで、主人公のまわりに危険が渦巻いた。宝石商の父親、宝石鑑定士の師匠が殺され、背後にはギルドの影があった。それだけの価値を、指輪は秘めていたのだ。

 ノートンのジュヴナイルである。猫から生まれた賢いエイリアン、イートも登場する。 (考えてみると、賢い動物のキャラクターは便利だ。人間ではなく、人間並の知能を持つのだから、かえって、会話だけで物語を進めやすいのではないだろうか)。 いくつかの惑星間を転々としながら、ストーリーは進む。あまり目新しさは感じられない。いつかどこかで、読んだ覚えがある。異星の酒場、漂流する古代宇宙船、死滅した種族、秘密の石・・みんなありますね、こういうのを書くときは、よほどの技量が逆に必要でしょう。ただ、さすがに、ジュヴナイルに定評あるノートンだけあって、お話が楽しい。パターンは幾種類も絡まり、決して飽きさせない。しかし、大団円の付けかたが、ちょっとあんまりだろう。いくらなんでも単純すぎる。

 それから、本書には続編があります、やっぱり。

 

大江戸馬鹿草子
かんべむさし(講談社 1986/1)

 もしも、江戸時代にビデオがあったらという、アルタネーティヴ・ユニバースものでは、本書はない。(作者もそう書いている)。つまり、ビデオは、新しい視点から江戸時代をみつめる、狂言回しなのである。主人公達三人は、ある日人魚の肉を食べ、不死身となってしまう。そして、幕府に反抗する侍、作家である僧侶、ビデオディレクターの町人として、江戸の二百数十年を生きることになる。彼らも、狂言回しだ。

 章立ては、江戸の各時代ごとに設けられ、それぞれ時代の情況が語られる。アチャラカ調ではあっても、的確簡便、その時代の雰囲気が伝えられている。作者の明確な批判が、込められている点が良い。もちろん、この文明批評は、ただ江戸時代だけではなく、今日の社会をも含むものなのだ。ただ、なぜか存在したビデオやマスコミが、後になるほど、物語中で希薄になった点は、惜しいように感じる。

 ところで、本書は最終章で、突然アルタネーティヴ・ユニバースSFになってしまうのだが、こういう言い方をすると作者に怒られるかもしれない。

 

ハルマゲドン黒書
中島渉(講談社 1986/2)

 主人公はルポライターである。敵は、ボリビアの奥地、アマゾンに潜むナチス“太陽の申し子”たち。スケールの大きな、冒険小説である。これが、著者の処女長編にあたる。展開の早さ、かっこよさ、舞台の設定と、なかなかの書き手である。主人公を巡って、謎の財閥シューアバルト財団、イスラエルのモサド機関、インディオのゲリラ“勝利の歌”などが暗躍する。その割に、冗長さが少なく、読みやすい。

 ナチスの、オカルト趣味に焦点をあてた作品は、そう珍しくない。黒魔術により、世界制覇を謀った云々…当時のテクノロジーを結集したドイツに、ゲルマンの暗闇が、垣間見える無気味さ。本書では、さらにアトランティスを理想とする集団(“太陽の申し子”)も描いている。帝都物語にでてくる、有名人ハウスホーファーも登場する。悪い意味ではなく、流行をしっかりと捕らえているわけだ。

 この結末は、さすがに、急ぎすぎたように思う。敵が弱すぎるのではないか。ただ、どうやらシリーズになりそうである。うーむ。

 

山田太郎十番勝負
横田順彌(角川書店 1986/2)

 都心を遥か離れた郊外で、ようやく手に入れた3DK――しかし、そこに現れたのは得体の知れぬ怪人達、相撲取り、タヌキ、ロボット、サンタクロース、透明人間……異口同音に 「たのもー」 と、勝負を求めてくる。負ければ、家を追い出されるという。三人家族の家長、サラリーマン山田太郎は奮戦する。これは、闘いの記録なのである。

 とはいうものの、勝負がどういう意味を持つのか、最後まで分からない。当然のことながら、闘いは尋常ではない。結末も、横田流ダジャレで終わる。書き出しを統一した、星新一の連作ショートショート 『ノックの音が』を思わせる。設定が単純なだけ、十話の物語に変化は付けにくい。同じパターンに落ち込む危険性が、常にある。困難を承知のうえでの、連作なのだろう。怪人の出てこないエピソードも含まれる。家庭を守ろうとする主人公が、健気である。後になるほど、凡人山田太郎の、悲壮感が薄れていくのが、ちょっと残念な気もする。絶望感の漂うハチャメチャの方が……では、あまり趣味はよくないか。十編のなかでは、 「家庭人戦記」 の将棋の闘いが熾烈である。

 

ロボット
矢野徹(角川書店 1986/2)

(pdfで収録)

 

モンスターブック
A・E・ヴァン・ヴォークト(河出書房新社 1986/3)

(pdfで収録)