黒い箱
阿刀田高(新潮社 1986/3)
(pdfで収録)
秘境の地底人
エイブラハム・メリット(朝日ソノラマ 1986/3)
(pdfで収録)
シミュラクラ
フィリップ・K・ディック(サンリオ 1986/5)
題名が、そのままディックの代名詞である。
仕事を禁止される精神分析医、強迫観念に捕らわれたピアニスト(念動力者)。大統領以上の権力を持つファーストレディ、火星へ脱出を勧める中古ロケットの移動店、さまざまな時に遍在するネオ・ナチの指導者(ユダヤ人)云々、六○年代の中期に書かれた本書は、いかにもこの作者らしい特質を感じさせる内容になっている。
これだけを見ても分かるが、(当然のことのように)混沌が描かれることになる。ディックは常に同じことを言う。同じ恐怖について語る。実は大統領までが…という、偽物の跳梁が、日常の風景なのだと述べている。比較的とびとびに翻訳が進められていた頃は、まだ目立たなかったが、六○年代の作品がこれほど密に出されるようになると、作者の執拗さが際立つ。同じことしか書けない作家は珍しくないが、それはあくまでアイデアやプロットなどの外面に過ぎない。これほどまで繰り返せる中身は、作者特有の個性の産物としか言いようがないだろう。小説として破綻がないわけではないが、本書は、最近出された中で、ディック流のガジェットの豊富さで、注目作といえる。
黄経八十度
森内俊雄(福武書店 1986/5)
2中篇を収める。そのうち、
「<砂>」
がSF風に書かれている。科学用語が頻出し、数式まで登場する。
(もっとも、高校数学レベルと、作者自ら本文中で認めている)。
けれど、用語はむしろ出鱈目に並べられているだけで、有機的に結び付いていない。当然のことなのである。ブランド名のちりばめられた、標題作
「黄経八十度」
を読めば明らかだ。女を残忍に殺した男が、ある女の家で過ごす一週間……。架空の国に、物語を設定したとみせて、実はそんなことはどうでも良い。溢れかえる品々の豊かさに、かえって人間の荒涼さを際立たせるという、手法で描かれている。
同じことが、このSF風作品にもいえる。地球が砂の中に壊滅した未来、外惑星から探査に訪れた植民者たち……。当たり前のSF風景に、さほど間違いのないガジェット。しかし、そのこと自体には何の意味もない。構造的には、この二作は全く同じなのだ。面白いのは、最初期のSFを思わせる、科学用語の羅列が醸し出す効果である。純文の書いたサイバーパンクといったところか。
作者は、第28回文学界新人賞、第1回泉鏡花賞受賞者である。
最後の新人類
川又千秋(中央公論社 1986/5)
標題作を含め、計10編を収めた短篇集である。
商業作家デビュー以前の作品、 「舌」 や 「魚」 から、最新作
「最後の新人類」
までの14年間が網羅されている。もともと短篇作家だった作者だが、実際に短篇集に収められる作品は、意外に少ない。特に長篇を書き始める以前のものはそうだ。そういう意味で、原初の川又千秋を知る機会にもなるだろう。もっとも、この2作を除けば、他は総て八〇年代の中短篇である。
標題作もそうだけれど、旧人類対新人類の、戦い(または末路)にまつわる作品が計3作。しかし、結末は見事なまでにあっけない。ようやく脱出を果たした新人類が、たった一行で滅び、さらに次の一行で、こんどは旧人類が滅亡してしまうという終わりかたである。この冷笑的な突き抜けが、かえって作品の印象を強めているようだ。もう一作、
「スプーン」 の最後も、別な意味の皮肉、そういえば、
「仮面舞踏会」 の、最後の人類もずいぶん嫌味に書かれている。
印象に残るのは 「十夜」 、短い章(十の章)を連ねていくことで、円環でつながった人類、生命の歴史をたどっている。
超獣閃戦(襲来編、反撃編)
門田泰明(祥伝社 1986/4、1986/5)
遺伝子操作を元に、超人を創造する――西側、東側の国々は、新しい兵器として、クローンサイボーグを開発していた。だが、日本の誇るサイボーグが、何者かに惨殺される。恐るべきパワーを秘めたはずの超人を倒したのは誰か。それは、一人の超少女だった。隠棲した遺伝子学者千種博士は、最愛の孫に自身の技術を注ぎ込んだのだ。その結果、黄金の光を放つ少女が生まれた。少女は、愛犬のスーパードッグとともに、平和を乱すサイボーグたちを皆殺しにする……。
少女が“平和のために”大殺戮を繰り返す、という書き方が、目新しい点かも知れない。(なんとなく違和感が残りますが)。
物語は、例のごとくソ連侵入、秘密基地粉砕のパターンを踏む。しかし、各種小道具は豊富で、お話しは起伏に富んでいる。割合重要な人物が、途中から(殺されて)、あっさり舞台を去るのも、無用の伏線を消すという意味で成功だろう。ただ、“遺伝子操作の産物”の処理法は、もう少し何とかならないものか。たとえば、いわば怪物である少女の描写が華麗すぎて、遺伝子サイボーグの必然性に乏しく思える。
血の伯爵夫人
レイ・ラッセル(朝日ソノラマ 1986/4)
かつて『嘲笑う男』が紹介された、レイ・ラッセルの短篇集である。ゴシックとあるが、いわゆる怪奇物とは異なり、昔風の“奇妙な味の小説”に分類すべきだろう。人生のアイロニーをさりげなく絡めた、良質の話が中心。ちょっと、ソノラマ文庫の雰囲気と異質な作品集である。
忘れられた名作曲家の秘話 「彗星の美酒」
、陥れるつもりが逆になる 「ビザンチン宮殿の夜」 、標題作の
「血の伯爵夫人」
は、処女の血で湯浴みをしたという、実在の女性がモデルの中篇。その他二篇、合計五作が収録されている。どの作品にも、しゃれた感覚があり、いかにもスリック雑誌出身の作者らしい。
ただ、このスマートさは、強烈な印象にはつながっておらず、バイオレンス全盛の現代日本の好みから見て、いま一つではないか。スレッサーなどと共通する、ある意味で、短篇小説の芸術といえる才能だけに、残念ではあるのだが。ソノラマの怪奇ものは、最近意欲的である。しかし、こういう系統のコレクションを含めるのなら、シリーズの多様化など、本の体裁も、再考する必要があるかも知れない。
透明戦隊
田中文雄(廣済堂出版 1986/5)
核戦争後の日本、軍人の残存部隊が臨時政府を作ってはいたが、生物兵器である改造犬、高知能の獣人などが跳梁する全国を、支配下に置いているわけではなかった。その政府の一隊が、偶然、核爆発の影響で、透明になった村人を発見する。彼らには、軍事的に計り知れない価値があった。政府は、村人を“透明戦隊”として、獣人の要塞攻撃に向かわせる。
これもまた、小道具豊富なバイオレンスもの。同じようなお話しを一度に読むと、内容の共通点が、どうしても目についてしまう。
「遺伝子改造生物兵器」
が最近の流行か。ただ、軍事的独裁、科学者に対しての批判的な見方、犠牲者である村人への同情など、作者には厭戦気分があり、無条件に戦いを肯定してはいない。有無を言わさずに、バイオレンス描写で突き切るのも、初期には流行った。しかし、誰もが同じ手法を使っては、読み手の飽きも早い。くどさはいらないけれど、かえって、反省があったほうが新鮮だ。このあたり、好みもあるだろう。無批判さが目につく中では、不思議な安心感があり、好感の持てる作品だ。
V
A・C・クリスピン(サンリオ 1986/6)
アメリカで1984年に放映された、テレビドラマのノヴェライゼーション。作者はトレッキーだそうだが、物語と直接関係はないようだ。
ある日突然、巨大な宇宙船が訪れる。彼らは“来訪者”と呼ばれる人間そっくりの異星人で、科学技術の提供の代わりに、工場の使用を要求する。だが、やがて友好的に見えたその裏で、恐ろしい陰謀の影がうごめき始める。洗脳、マスコミ操作、科学者の失踪――来訪者の真の目的は何なのか。やがて、強力な軍事力による独裁政治が姿を現す。
『幼年期の終わり』風の始まり、しかし、本質的には“アメリカ万歳”な訳ですね。題名のVというのは、
「勝利のマークだVサイン」
のVのこと。これが、来訪者に抵抗するレジスタンスのキャッチフレ−ズ。独裁からのアメリカ解放を描いている。二、三年前からの、例のお祭りムードに乗った作品だ。相手が強大な割に、戦いに安易な雰囲気が漂う。もっとも、テレビなんだから、しようがないかも知れない。この作品は後にシリーズ化、続編が多数放映/出版されている。ただし、作家は異なる。
魔界水滸伝(全11巻)
栗本薫(角川書店 1986/5)
(pdfで収録)
ヴァレンティーナ
J・ディレーニイ&M・スティーグラー(新潮社 1986/7)
コンピュータ・ネットワークの中で生まれた、人工知能のお話し。天才的なハッカーの女性が生み出したプログラムが、ある日突然本物の知能を持ちはじめる。
(この設定は人工知能ものとしては、もっとも安易ですが)。しかし、もともと他人のコンピュータに侵入する、違法なプログラムなのである。そこでこの未曾有の存在の認知を巡って、
(いかにもアメリカ風に) 裁判騒動が巻き起こるのだが……。
小説は並の出来。けれど、LISP(ポピュラーな人工知能言語)
やデータフローマシン (日本では、国家プロジェクトで研究中。本書中では、失敗に終わったなんて書いてある)云々の、コンピュータ・ガジェットが出てきて楽しい。訳文では、原文にあるドタバタ臭を除いたという。売りやすさもあって、意図的に最新コンピュータ用語小説にしたのだろう。ただ、本書の解説では、そのあたりのコトバがほとんど言及されていない。一般読者向きに、ヤボな専門用語をあえて説明する必要はないのかも知れないが、唯一ある“ワーム”の説明が(内容的に)電脳都市からの引き写しというのはどうか。
玄武城の呪い
竹河聖(光風社出版 1986/9)
中世、敵に包囲され、山津波に呑まれて滅んだ明王院家の砦を、いま大学研究室の一行が発掘している。その中に、清楚な美女香織がいた。時代離れした。ソしさのある少女だった。しかし、この発掘は、恐ろしい呪いを。Sらせる。かつて、呪術で敵を倒したという明王院家の当主が、500年を経てミイラ化し、なお生き続けていたのだ。香織は、その魔力に取り憑かれる……。
ジュヴナイル(ソノラマ)でデビューした作者の、これは伝奇小説。ファラオの呪いのエピソードを冒頭に据えている。そして、物語は、まさしく呪い物の範疇で展開する。
(といっても、単純な焼き直しという意味ではない)。派手なエスカレーション(ヴァイオレンス・シーンなど)
もなく、スケールの広がり自体は余りない。それだけに、題材の処理に専念できるわけだ。ヒロインの心理を中心に、物語は進む。ただ、もうすこし呪いを武器にする明王院家などの、歴史的背景も書いて欲しかったし、なぜ香織が霊に犯されたのかも、納得できる形で書いてほしかった。この説明だけでは、いまひとつ疑問が残ってしまう。
ライオンルース
ジェイムズ・H・シュミット(青心社 1986/8)
シュミッツ初の翻訳作品集で、六〇年代前半の4中短篇を収める。アイデアを中核にした、シンプルな内容である。
たとえば、「ライオン・ルース」は、宇宙ホテルをめぐる陰謀を、仲間の離反をうながして、主人公が阻止するというお話。けれど、現代SFを知っている我々が想像するより、ずいぶんあっけらかんとした展開だ。権謀術数を巡らす、複雑なプロットはない。だから、読み手も、その点を納得したうえで、楽しむ必要がある。いわゆる“名作・傑作”ではない古典的なSFを、今あえて読む意味
(というほど堅苦しく考える必要はないが)
は、逆にこの単純さにあるのだろう。単純ではあるが、もちろん、ミエミエの白痴プロットではないのだ。小説の力点をどこに置くかが、20年前と今とでは、そもそも違っている。
なかでは、得体の知れない荷物を運ぶパイロットを描く
「時の風」 、妙な安心感を与える木 「ポークチョップ・ツリー」
など (同じアイデアでも、現代作家のティプトリーが書くと
「一瞬のいのちの味わい」 になる…前号参照)
、比較的短いものが、目新しさはないものの、安心できて良い。
アマノン国往還記
倉橋由美子(新潮社 1986/8)
核戦争後一千年の未来、地球は単一の宗教組織モノカミに支配されていた。その中で、唯一アマノン国のみが国を閉ざし、内部の世界を隠している。モノカミ教団は宣教師の一団を派遣するが、たどり着けたのは、一人Pだけであった……。さて、それからが倉橋流
「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」 なのだ。(ティプトリー作…前号参照)。アマノンは女人国である。男は極端に少なく、女が男の役割を果たしている。Pは男であることを武器に、テレビショーで自分の存在を広めていく。
作者はこの設定を、あまり肯定的に書いてはいない。かといって批判的でもない。意外にフラットな展開で、架空の(未来の)
日本を描いていく。設定だけで、物語を紡いでいこうとしている。ただ、ある意味でディストピアものなのだけれど、不思議にもありふれた風景に思えてきてしまう。こういうお話は、どこかで何度も読んだ気がするのである。設定がSFに近い分、新鮮さがないのかも知れない。
ところで知人の某女性によると、ティプトリーも倉橋も、“子宮がワープしてる”そうなんだけど、―まあ、いいか。
魔術師
山田正紀(徳間書店 1986/8)
ゲーム小説かと思いきや、『神獣戦線』の長編第一作である。山田正紀の代表作といわれるこのシリーズでも、本書はその構成など、特異な位置を占めている。“魔術師”という言葉から、何となくロールプレイング・ゲームを思い浮かべたが、それも作者の意図なのだろう。実際に本書の登場人物達は、体力や技量を点数で与えられ、それらを磨り減らしながら、人類を遥かに超越した一種の神“大いなる疲労の告知者”を倒す旅に出る。
本書では、作者自身も登場し、消えてしまったワープロのファイルを修復中に、物語を盗んだと称する男から、この作品自体を送られるという、これまたややこしい構成を取っている。お話が進むにつれて、現実から夢幻の世界に陥こんでいく点は、従来からの、このシリーズの特色だろう。けれど、あるいは本書のプロットそのものが、何度も何度も飽きもせず繰り返される、コンピュータ・ゲームの経過そのものかも知れない。ゲームをやっていて、俺はどうして、こんなにのめり込まねばならないのか、と疑問を感じたなら、あるいは本書の主人公達の心境に
(相似的に) 近付いたのかも知れない。
『SF年鑑』も、今年で
(アングラの81年版も含めて)6年目を迎える。これだけ続けば、資料としての価値もますます高まっていくはずだ――と、思っていると、今回限りになるかも知れないという。資料は、確かに完全さも必要だが、やはり“ある”事が第一である。10年後に出る“完全版”より、現在の経過報告の方が大切だ。ともかく、残念なことだ。新時代社から刊行された年鑑は、各号ごとに編集方針を変えてきた。1年目は資料のみ、2年目からレビューを含むようになった。以降、この形式を踏襲している。しかし、そのレビューの選択や、総括の書きかたは、各年で随分違っていたように思う。文芸年鑑のような一定の型に、はまらなかった点は評価できる。しかし、ルーチン化しなかった分、どこか危うさもあった訳だ。年鑑という性格を越えて、広く一般読者向きを狙ったのも、大きな特徴だった。
本年版の年鑑は、原点に帰ったようだ。資料、レビュー、総括と過不足なく取り揃え、個人的には、もっとも気にいった編集方針である。装丁や価格は、もはや一般向きではないが。 |