老いたる霊長類への星への賛歌
ジェイムズ・ティプトリーJr.(サンリオ1986/8刊)


SFアドベンチャー
(1986年11月)

老いたる霊長類の星への賛歌
(サンリオ文庫版カバー)

*本書は1989年にハヤカワ文庫から再刊されている。

 はたして何人の人が、ティプトリーという名前と、その作家としての意味を御存じだろうか。

 初めて翻訳が出たのは、もう12年の昔になる。一昔どころか、一回りの昔だ。それから七〇年代の終わりまで、毎年華々しく紹介がされて、八〇年代に入ってから、ふっと翻訳がとぎれた。この頃まで、SFマガジンなどの雑誌を熱心に読んでいた人なら、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアを良く覚えているだろう。5年ほどの空白後、また訳が出るようになったが、しかし、本書まで単行本はなかったわけである。

 短篇集といっても、長い中篇2作が核をなしている。 「ヒューストン、ヒューストン聞こえるか」 は、この時期の代表作。太陽を探査中の宇宙船が、300年の未来にタイムスリップする。そこは疫病で、世界の人口が200万人まで激減した社会だった。当然価値感も、社会のあり方自体も、大きく変貌していた。そして、不思議なことに、男の姿が見えない……。

 ジェイムズ・ティプトリーという作家が、実は女性のペンネームである――それが判明した当時は、作風の解釈にも微妙な変化が見られ、ずいぶん話題となった。ただ、フェミニズムの問題を扱っても、ティプトリーの眼はあくまで冷厳である。情動を一切交えずに、女というもう一つの感性を描く。彼女の場合、どんな作品においても、人間の感情、感覚の問題を離れることだけはない。ただ、それを女性的な観点と単純化しても、あまり意味はないだろう。興味の対象は、“女性の立場”とは違うのだ。

 たとえば、短かめの 「煙りは永遠にたちのぼって」 は、核戦争の後、死んだ人間のどろどろした感情が、まるで煙のように漂い、過去の追憶を再演するというお話。さらに、一番長い中篇 「一瞬のいのちの味わい」 には、人の心に強烈な吸引力を及ぼす、異星の植物が登場する。ティプトリーは、いかに近く親しく見えても、われわれの感覚と決して相容れない存在を描いている。異質さのあまり、その出会いは、象徴的な“死”を招く。男女関係、人間関係も実は同じなのだと、示唆する辺りが、この作者の怖さだ。

 かつて一回り昔に、評者は大野万紀、鳥居定夫、米村秀雄らと、ティプトリー評価の最先端にいた。まだ誰も正当な扱いをしていない、隠れた作家の一人だった。もちろん、それだけのことはあった。 「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」 という、長ったらしい題名の短篇以来、七〇年代はリアルタイムにティプトリーと、同時代アメリカSF、対する日本の翻訳SFを追い続けることができた。一人の作家と、作家を巡る情況を、渦の中から見渡せた。もう今は、当時ほど熱心とはいえない。それだけに、やや精彩を欠いた八〇年代になって、ようやく日本語の形で読めることに、複雑な思いがある。最近は特にそうだが、作家の活動と同時代のダイナミズム(社会の動静など)とは、密接に関連しあっている。“時代を越えた”普遍性が作品評価の物差しとして、有効でなくなってきている。だからこそ、紹介もまた動的でなければいけない。そういう意味で、ティプトリーを最高に楽しめるのは、やはり七〇年代だったのだ。

 本書は、作者の第3短篇集にあたり、重厚さが増した分、初期の軽やかさに欠けるようだ。けれど、一時代を画した注目作品集として、やはりお勧めである。計7篇、ショート・ショートなどの初期作も含まれている。