ストーカー
A&B・ストルガツキー(早川書房1983/2刊)


SFアドベンチャー
(1983年5月)

stoker.jpg (5683 バイト)
(ハヤカワ文庫版カバー)

 ストルガツキー版の『ゲィトウェイ』といっていいのかもしれない。もっとも、本書の発表は早く、第一部が1972年に出ているから、本当ならば『ゲイトウェイ』(77年)がポール版『ストーカ−』と呼ばれるべきなのだろう。近未来、異星人の残した正体不明の遣物をめぐって、一獲千金を夢見る密猟者(=ストーカー)たちが暗躍する――基本設定に両者の類似点は多く、ある意味でテーマもよく似ている。しかし、一番の相違は、異星人(遺物〉と人間との関係にある。

 ポールが異星人の謎に解答を与えなかったのは、それが、断片的に挿み込まれる未来社会の混沌と呼応するものだからだ。多くのSFにおいて、異星の文明は確実に繁栄(または破滅)をもたらす。だが、ポールの近未来はそれほど極端なものではない。従って謎の全ては、単純に明らかにされないのである。続篇に至って、謎が次々と解かれていったのも、作者の興味が別の方向へと移ったせいだろう。それは『ストーカー』の視点とは違う。本書の中で、異星人〈来訪者〉たちが人間に全く興味を示さなかったように、作者の眼は未来社会に、いや〈来訪者〉自体にも、直接向いていないのだ。

 “ゾーン”という領域がある。田舎町の一割、ほんのひとにぎりの土地だったが、そこはこの地球の領土ではない。重力異常がある。何の前触れもなく熱風が吹き抜け、密猟者の命を刈り取っていく。青い液体の請まった金属罐、無限の動力を生み出す電池、得体の知れないガラクタの山……。〈来訪者〉が地上に降り、また去っていった後、その残滓が至るところに見られる領域――“ゾーン”とは、地球にありながら、異星人によって変えられてしまった異世界なのである。そこに、ストーカーたちがいる。遺物は金になる。軍の管理下、重罪になると分かっていて、彼らは遣物を盗み出す。何人もの犠牲を出しながら。

 本書の原題は『路傍のピクニック』という。“ゾーン”とは、実は異星人たちの“ピクニック”の跡で、遺物の数々も彼らの捨てた屑にすぎない――そんな暗示を含ませた題名だ。だとすると、ストーカーは、屑をあさる虫の群れ、単なる虫ケラになってしまう。ストルガツキーは、虫ケラを執拗に追う。物語の視点は、一人のストーカーに絞り込まれているのだ。

 主人公は、“ゾーン”と化した町の住人だった。何度も“ゾーン”に侵入し、盗みを続けていた。娘は正常な子供ではない。全身に金色の毛が生え、成長するにつれて、ますます人間から遠ざかっていく。死んだ父親が、部屋にいる。墓場から蘇ったゾンビ――もちろん、それは死んだ人間そのものではなく、別のものなのだが。町の住人は外部への移住を禁じられている。彼ら全て、ストーカーたち全ては、もう普通の人間ではないのだ。考えてみれば、ずいぷんおぞましい話である。しかし、作者はこれを決して、怪物の物語として書いてはいない。しだいに泥沼へと落ちこんでいく人々を、突き放して書こうともしない。ここに、ストルガツキーの主張がある。他の作品でもそうだったけれど、ストルガツキーの小説は、最終的に個人へと収斂していく。人類、宇宙へと広がってはいかない。〈来訪者〉にとって虫ケラにすぎない人間、汚染された人間を、それでも人間なのだと描きつづけることに、作者の持ち味があるのだろう。同じ超越知性との接触を扱っても、レムならばこうは書くまい。論理的な見方ではないから、嫌う人もいるかも知れない。ただ、やはりストルガツキーの良さは、この点“人間”にあるのだ。巨大で、どうしようもない運命に翻弄される人間個人こそ、作者の描きたかった対象に運いない。