東海道戦争・幻想の未来
(筒井康隆全集1)
筒井康隆(新潮社1983/4刊)


SFアドベンチャー
(1983年7月)

筒井康隆全集(新潮社)
(新潮社版外函)

 “筒井康隆”の名前を知ったのは、ずいぶん昔のことだ。中学生のころだった(小学校6年で、リアルタイムに『東海道戦争』を読んだという、大野万紀氏のような人もいるんですが)。しかし、当時、既に十冊以上出ていた、著者の本を手に入れるのは、なかなか大変だった。新刊ですら店頭になかった。この状勢は、70年代のはじめまで続いていたように思う。ちょうどそのころ、大学生を中心にブームが起って、旧刊本が店頭 でも揃えられるようになる。何年も前の、値段の安い初版本が、ゾロゾロ手に入った。すぐに版を重ねるようになったから、思えば昔の物語だ。実際は、わずか十数年ほど前のことなのに、やっぱりそんな気がするのである。とうとう全集が出た。

 全24巻の筒井康隆全集、本書がその第一巻目である。『東海道戦争・幻想の未来』とあるが、同題の単行本とは内容が違う。処女作「お助け」(1960年「NULL」発表。この短篇は、同人誌第一作であると同時に、「宝石」誌に転載された、ブロジンデビュー作でもある)から、「東海道戦争」(65年)までを、発表順に再編集したものだ。短篇集『東海道戦争』(初版65年)、『にぎやかな未来』(初版68年)のうち、65年までの作品と、最近まで未収録だった作品(『あるいは酒でいっぱいの海』に収められた)など、初期作 ばかりを集めている。著者のショートショートは、この時期に集中して書かれているので、総収録作は53篇と、全集中一番多い。

 『幻想の未来』(64年「宇宙塵」連載)は、今日の筒井康隆を先取りした作品だった。初期作は、「ベトナム観光公社」(67年)「アフリカの爆騨」(68年)など、“疑似イ ベント”とか“ドタバタ”と呼ぱれたものが評価を得て、その後長期間、筒井康隆のイメージとして定着していく。もちろん、これらも代表的な一面ではあったのだが、その一方に「家」(71年)や「佇む人」(74年)などの作品が生まれ、やがて『エロチック街道』(81年)のように、作品集の雰囲気自体を支配するものへと変化していく。『幻想の未来』の描くのは、静けさの中の未来だ。放射能が染み込むように、世界を犯していく狂気の印象がある。これは、例えば、佐藤春夫の「のんしゃらん記録」を思わせる「下の世界」などの短篇から、リニアに展開された静けさであるように思う。本篇が単行本として出された68年には、もう一方の“スラップスティックの筒井”が固まっていたから、一般では、戸惑いながらの、中途半端な感想しか聞かれなかった。しかし、今、初期作の流れの一点に置いてみると、非常に納得できる作品だと気がつく。本書の諸作品には、後の著者の作風が、既に随所にあらわれている。「底流」は後の『七瀬』だろうし、「わが良き狼」(69年)のセンチメンタリズムも見られる。この中に、『幻想の未来』という事実上の処女長篇である核が置かれている意味は大きい。現在の筒井的作品の、原点があるのだと判る。

 本書の巻末には、詳細な筒井康隆論(関井光男)が書下ろされている。これは、筒井康隆を、超虚構(メタフィクション)の立場、ポストモダニズムの作家として捕えたものだ。その作品を、カタストロフィーの理論、シミュレーション(今流行の記号論的ターム。ディックのシミュラクラと同様の意味)エントロピー等の言葉で解読しようとしている。ただ、実証に上げた作品と、述べている内容との対応が、やや取りにくいのではないか。このロジックならば、現時点での著者に繋がるような作品を、対象に取り扱ってほしかった。