さらば ふるさとの星
ジョー・ホールドマン(集英社1982/5刊)


SFアドベンチャー
(1982年8月)

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(集英社版カバー)

 21世紀の地球、軌道上には40余の宇宙都市が浮かび、それらは〈新世界=ワールズ〉と呼ばれている。その一つ、〈ニュー・二ューヨーク〉から、一人の女性、マリアンヌ・オハラが、ニューヨークの大学へとやってくる。

 本書は、マリアンヌのさまざまな体験と、地球社会に対する印象によってつづられた作品である。21世紀の地球のありさま、大学の雰囲気は詳細で、現実感にあふれている。主人公の描写も同様、全く破綻を感じさせない。――ただ、この長篇が、それ以上のSF的シチュエーションを持っているかとなると、かなり引っかかるものがある。

 巣英社ワールドSF双書の、第一巻目。1981年に出たぱかりの、最新長編である。続刊予定にある『翼人の掟』や、『ハロー、アメリカ』も昨年の収穫だから、現代SFのもっとも新しい部分が紹介されるわけだ。しかし、現代SFには、スパイダー・ロビンソン『スターダンス』のように、どうしようもない“ロマンティシズム”ヘと流れていく作品がある。人問的感情が、異質の知性にも通じると主張する姿勢が、どうしようもなくナィープなのである。さすがに、ホールドマンの小説には、そんなパカげた思い込みはない。それでも、ロビンソンとホールドマンの差異は、かなり小さなものと見なせるだろう。現代SFの良質な部分は、例えば、グレゴリィ・ベンフォードの作品にあらわれる。人間の描き分けと、適度なSF設定が混り合い、バランスのとれた小説に仕上っている。仕上ってはいるが――ここでいう小説とは、普通小説に近いものだ。本質的な差異のなさは、その辺りに由来する。

 アメリカのSFは、老成期に達している。
 “老成”といっても、これでSF自体が老年期に入ったとか、終りだというのではなく、戦後のSFを支えてきた、SFの定石(アィデア、テーマ、スタイル等)が“老成”化してきているのだ。アメリカ人ではないが、クラークの技法上の“老成”が、むやみにディティールにこだわる、例えぱ『地球帝国』以下の三部作を生み出してきたように、技法と小説のうまみだけでは、決してSFの傑作は作り出せない。ホールドマンが、本書を第一部とする、近未来三部作で何をするつもりなのかは、まだ分からないけれど(おおよその予想はできる)、それが新しい意味を持つ“SF”であるかどうかは疑問だ。ホールドマンは、『マインドブリッジ』や『SF戦争10のスタイル』(編著)などの紹介があるが、やはり『終りなき戦い』の印象が強い。ベトナム戦争を、作者の主張を込めてSFに投影した『終りなき戦い』は、ホールドマンの名を一躍高めている。ハードSFの七〇年代版である“ニュー・ハード”と評されたのは、そのイメージに多くを負っている。けれども、本書を読むと、いささかとまどう人も出るかも知れない。いわゆるハードさが、ほとんど見られないからだ。『終りなき戦い』は、ハインラィン『宇宙の戦士』の、ホールドマン流の回答だとされている。同じように、『月は無慈悲な夜の女王』が『さらぱふるさとの惑星』に対応するという見方もある。しかし、本質的に、植艮地独立の物語から視点を外している以上、あまり意味がないだろう。

 本書は一種の“ロマンス”である。主人公の行動は、そういうふうにも読める。アメリカで出るぺ−パーバッグの4割はロマンスだという。もちろん、ロマンスとは、サイエンティフィックと無関係な、ハーレクインやシルエットなのだが、本書には、一歩誤ると、氾濫するロマンスの洪水に流されてしまいそうな、芯の弱さが感じられるのである。