戦闘妖精・雪風
神林長平 (早川書房1984/2刊)


SFアドベンチャー
(1984年6月)


『戦闘妖精・雪風』(早川書房)
(ハヤカワ文庫初版カバー)

Amazon『戦闘妖精・雪風(改)』(早川書房)
(改訂新版カバー)

 

 ジャムとは、異星からの侵略者の名である。極点のゲートを通過し、ある日突然、地球ヘと侵攻してきた。けれど、彼らの正体は分かららず、誰一人、その異星人の姿を見定めた者はいない。やがて地球側は、地球防衛機構――フェアリィ空軍を創設し、ゲートを抜けた向こう、惑星“フェアリィ”に反攻する。

 雪風は、そのFAF(フェアリィ空軍)、戦術偵察機スーパーシルフの一員であり、主人公深井零の愛機である。偵察を第一の任務とし、絶対帰還を課せられた零たちは、しかし、自らの意志をもって、非情に戦友の死を見守るばかりだ。だから、彼ら“ブーメラン戦隊=偵察飛行隊”は機械になぞらえられる。機械こそジャムに対抗する、もっとも強力な武器なのだった。機械になりきる、いや、機械にまかせ切ってはじめて、人類はジャムに勝てる。だが、そのとき勝利するのは、はたして人問なのか、それとも機械なのか。

 神林長平という作家は、世界描写にすぐれた書き手ではない。“土くれや、木の葉の一枚一枚を丹念に”描く姿勢は、そもそもないのだ。それは、時に人物描写にまで及んで、いまひとつ印象を薄めてしまうこともある。とすると、本書の〈雪風〉は、もう異常なほど細密描写されたことになる(ただし、その執拗さは、外見に対してでなく、あくまで性能――諸元に対するものだが)。解説で、野田昌宏氏が“原型はトムキャット”と触れているけれど、まあ、メカフェチではない評者にも、例の重戦聞機のイメージが浮かんでくる。グァルキリーも似ていたし、トムキャットはメカの極致みたいなもので、あえて全く違った形式を考える必要もないのかもしれない。作者も承知の上だろう。

 メカの極致――その象徴としての〈雪風〉。ここから、本書の発想も生まれる。
 高度の電子戦は、最終的に人問の手を離れる。その先にあるのは、純粋に機械の存在だけだ。主人公零は、いつも、そんな戦いの主導権を握っているのは何なのか、疑問を抱いていた。ジャムの攻撃対象は、実は人間ではなく、人間の創った機械のみではないのか(「子の価値を問うな」)、ジャムの工作により、突然に人間を追い払った空中母艦(「インディアン・サマー」)、彼の意志を難れ、自走をはじめる愛機(「全系統異常なし」)と、しだいに明確化されていく。中には、人間の心理の弱さから、逆に自らを排除せざるを得なくなることさえある(「フェアリィ・冬」)。やはり、最後に残るのは、機械のみなのか(「スーパーフェニックス」)。

 もちろん、本書に人間が出てこないはずもなく、個性ある人々が何人も登場する。

 主人公の上司ブッカー少佐、アナクロジャーナリストのランダー、インディアン戦士トマホーク・ジョン、もらえるはずのない勲章を受けるはみ出し者天田少尉。彼らは、主人公以上に印象深い人物たちだ。しかし、それでも、本書の主人公、真の主人公は〈雪風〉であり、マシンたちである。

 メカを本当に愛する者は、その魅力と共に、その限界もまたよく知っている。メカの限界は、実は人間なのだ、と結論する作者の眼には、半ぱ悲しみが込められているようで、説得力ある結論となっている。終章で、愛機に見捨てられる、深井零の姿が哀れだ。

 収録作全8篇。何れもSFマガジンに掲載された運作短篇である。多くの顔を持つ作者だが、本書こそ神林の代表する一面と考えてよいのではないか。

 メカフェチでない方にもおすすめ。