SFアドベンチャー
(1982年12月)
関連文献
上記を含む著者の作品集
(国書刊行会版) |
山尾悠子の作品に“時”は流れない。いや、もちろんストーリー展開としての順序はあるのだけれど、それは、過去から未来への明確な流れを持った時系列ではないだろう――少なくとも、そう思わせる実例が本書にはある。
「夢の棲む街」(1976)は、著者のもっとも初期に属する中篇である。二つの閉じた世界を“ピンセットと虫眼鏡で”創り上げた作品なのだという。「時がない」といったのは、文字通りの意味だ。時があるためには、現在の一瞬に連なる、過去の集積だけではなく、変化する未来に対して展望がなければならない。だが、この中篇の展開には、それが存在しない。冒頭の、円形劇場の場面にはじまり、踊り子の逃走、侏儒の話、天井裏にひしめく奇形の天子、この街にまつわる星と海の話、〈禁断の部屋〉の時に封じ込められた女、上空から降りそそぐ羽根、地下室の人魚と、“街”の様子は、さまざまな構成要素を通して語られる。けれども、この登場人物たち、事物たちの、本来の意味でいう履歴(生まれ、成長し、老い、死んでいく)は極めて希薄である。デルヴォーやピラネージの絵画をイメージに、作品を書くと言った、著者の作業そのものに由来する部分もあるのだろう。いくつかの場面転換は、あくまで空間の移動であって、凍結された時の一端を写し出しているにすぎないのだ。
山尾悠子の語る“神”や“造物主”は、キリストの神と、おそらく何の共通項もない。一見、ヨーロッパ的な描写の対象も、(これは当然だが)背景をなす発想そのものから異質である。だから、設定が周じ、
ボルヘス「バベルの図書館」に対する、本書の「遠近法」に、創造と破滅という始点、終点を明白に持つ、キリスト教の時間流は存在しないのである。同じ永遠を語る、「バベル――」の螺旋形をした“迷宮”(螺旋は直線的時間に達なる)と、輪の形に問じられた“腸詰宇宙”の円とは、本質的に違うものだと思える。
ボルヘスの迷宮自体、キリスト教的世界観の裏面から生じたと、考えるべきかもしれない。つまり、「バベルの図書館」にある、周期をもって繰り返される、無尽蔵の本とは、天地創造と救済の果てに、また天地創造をつなぐような形の永遠であるからだ。他方、山尾悠子の永遠とは、静止した時の中での、凍りついた円といえる。
そして、「夢の棲む街」の漏斗型の街と「遠近法」の腸詰宇宙の終わりにはカタストロフが置かれている。これら、徴小な細部を持つ閉空間の物語を終えようとするとき、山尾悠子が世界の破滅を選ぷ理由は、結局“流れない時”にあるのではないだろうか。人問のさまざまな邪念(遇去や未来への執着)のない世界は、何の支えもなく、一瞬のうちに崩壊する。無時間に生まれ、無時間に消えていくのである。
実は、「遠近法」の中で、日常的な時が経過する部分がある。腸詰宇宙について語る彼と、聞き手である私との時間だ。しかし、日常の時間は私に属しており、彼は腸詰宇宙の無時問に支配されている。そこに、日常の時が入り込んできた瞬間、宇宙は彼もろとも霧散してしまうのである。
本書は、これまでに書いた「夢の棲む街」「遠近法」(各々、改稿版)の他に、「遠近法・補遣」「傅説」「繭」(「傅説」以外は、未発表の新作)を収めた、著者のベスト・コレクションである。
最新作の「傅説」「繭」あたりになると、初期作と比較して、言葉はより先鋭化されており、絵画的印象は、熟語や字面のもつ文字の流れに置きかえられたようにも思える。6年間の変化を考える意味でも、興味深く読めた。
*この作品は、『山尾悠子作品集成』(2000)に収録されている。 |