SFアドベンチャー
(1985年1月)
(ハヤカワ文庫版カバー) |
なんともはや、あらゆる点がSFである。コードウェイナー・スミス以来の、アメリカ型絢爛豪華さで(ベイリー自身はイギリス人)、例えばサミュエル・ディレイニー風、初期の大原まり子風であったりする。原色の派手さと、厚みのない軽さとの混交――そう言っても、もちろん悪口にはならないはずだ。
退廃した銀河帝国、第十宇宙艦隊は、辺境世界から、芸術家や作家を“徴税”する任務に就いていた。人口が減少し、創造力に欠ける帝国の中枢ダイアデムは、そういう方法でしか文明が維持できないのだ。艦隊には、人間を補う、知能化された動物たちが、多く乗り込んでいた。麻薬とパーティに明け暮れる船内、老人の顔をファッションにする女たち、ここもまた、衰微の色が濃かった。
――と、ここまでは、(比較的)整然としたきらびやかさなのだが、この先が混沌。キメラ猿人のパウト、
偶然手にする禅<ゼン・ガン>銃、 武士道を守る<小姓>池松八紘、反乱軍に宇宙海賊、汎動物主義者に、後退理論云々――もう、何が何だか、分からないでしょう。読んでみても同じですよ。
ストーリイに、さして述べるものもなくて、次から次へと人物が現われ、場当たり的伏線が張られるなど、その面での印象はいいかげんである。しかし、惜しげもなく繰り出されるアイデアと、怪しげな疑似科学は、実に奇怪な雰囲気を作り出す。去年翻訳された『カエアンの聖衣』はまとまり過ぎていた。本書の不均一さが、むしろベイリーの個性に近いはずである。最初に訳された『時間帝国の崩壊』など、八方破れの展開が、かえって評価のきっかけを産んだ。
軽薄さの原理というものが、SFにはあって、軽ければ軽いほど、無数の要素を取り入れられる。逆に、要素が重くなると、一つの作品に取り込める内容が減少する。そういう性質は、SFの黎明期から、わりあい明瞭に分かっていた。レンズマンの、華々しさと単純極まる法螺話風エスカレーションを見ても、納得出来ることだ。あれだけのスケールを作りあげたのは、それぞれの要素の持つ“軽さ”なのである。決して、重厚さではない。
しかし、だからといって、SFの総てが、(当然ながら)この原理だけで動いているわけではない。基本的なアイデアが出尽くし、既存のもののラフな組み合わせで、大半の小説が仕上がってしまう今日では、過大な労力を要する“軽さ”の大量投入は敬遠されるのだ。その上、長いルーチンワーク(ファンタジイ)が、読み手の側からも要求される。
それだけならまだしも、“軽さ”に対立する“重さ”――1つの対象、例えば人物、異星の風俗に対する書き込み――は、描写力の優れた書き手にとって魅力なのだ。細かなアイデアの羅列より、単一のものへの集中のほうが、ずっと効率がいい。評論家の受けもいいだろう。
かくして、『キャッチ・ワールド』(クリス・ボイスの小説もこれ以外は、“重い”)
的作品は、極めて希なものになる。コードウェイナー・スミスの系列が少ないのは、別に偶然ではない。
スミスがなぜ面白いのか。一つに、あるいは、未来はこうなのかも知れない、と思わせる異質さがある。異質さを生み出すのは何か、未来史の複雑な背景もあるだろうが、それより、軽さの積み重ねと見たい。ベイリーの魅力も同様の点にある。質より量、というと問題があるけれど、要は“総量”なのだ。単一の重さより、多数の軽さが、もともとのSFの特質である。 |