昨年(1986年)の2月にハーバートは亡くなった。結局、現時点では、これが、デューン最後の作品なのである。1965から1985と、ちょうど二〇年目にして、シリーズは幕を閉じた。ただ、砂漠の異端者から始まった、今回のお話しは中途半端に終わっており、エピソードとして完結してはいない。謎を残す結果となった。――未完の続編が刊行される可能性も、ないわけでは(もちろん)ないのだが。
さて、前作で外宇宙から、旧帝国の範図に帰ってきた、残虐な“誇りある女たち”は、次々とベネ・ゲセリットの惑星を破壊していく。デューンさえもが焼き尽くされた。ベネ・ゲセリットは、残された拠点大聖堂惑星で砂虫を育て、反攻の機会をうかがう。しかし、なぜ女たちは戻ってきたのか、彼女たちが秘かに恐れる存在とは何だったのか……。登場人物は、教母長オドレイド、アトレイデ家の血を引くメンタートテグ、ダンカン・アイダホ、女たちからの改宗者マーベラ、砂虫を操るシーアナといつものように多彩。(さて、何がどうなっているのか、これだけ読んで分かる人いますか)。
現代SFの中で、このシリーズを振り返って見ると、環境と人間の関わりを描いたとされる『砂の惑星』は、“生態学と環境問題”という時代情況下で、まず評価を受けてきた。時代の流行をいちはやく取り込んでいた訳だが、これは、どんな時代でも、広く作品が受入れられる要件だと考えられる。しかし、もともとこのシリーズは、錯綜した人間関係の縺れあいが焦点にあった。それが動的に描かれたのが、初期の作品であり『砂漠の神皇帝』以降のように、登場人物たちの独白が大半を占める静的なもの
(戦闘シーンですら、ほとんど描写がない)
まで、一貫して個と個、集団と集団の論理が語られてきた。
実のところ、デューンの世界は相当に奇怪なものなのである。まだ、砂虫と砂漠の民というだけなら、驚くほどの設定ではないけれど、砂虫と化した皇帝、数え切れない回数、再生を繰り返させられた“ゴーラ”
(クローン) 、女だけの集団“誇りある女たち” (オナード・メイトレス)
と教母たち“ベネ・ゲセリット”など、この無気味さは比類がない。デイヴィッド・リンチの映画は、失敗だったかもしれないが、あの異様な映像のイメージだけは、シリーズの雰囲気を伝えていた。外見のグロテスクさだけではないのだ。教母や皇帝の思考パターンにも、常軌を逸した独特のいかがわしさがある。
別世界を創造するファンタジイは、今でも数知れず書かれ、また読まれている。けれど、本当に現実から離れた“別”世界であることは希だろう。そこに描かれたものは、どこかで見たもの
(たとえば、既存の小説、歴史、科学)
の借物であることが多い。また、舞台も、あるがままに何の説明もなく置かれて、深い意味を持たせられない場合が普通になってきた。そのこと自体は、別に良いことでも悪いことでもない。けれど、本当か嘘か、意味があるのかないのかさえ分からなくなる多層性も、SF本来の手法なのである。今風のSFでは、そこまで書き込んで、なお目の肥えた読者を欺くのが難しいだけだ。幸いというか、たまたまというか、デューンの世界は長い年月の間に、無数のエピソードで構成された独自の舞台があった。そして、作者の興味も、堂々巡りに陥らずに、新しい方向へと変わっていった。そういう意味では、本書を含めたこのシリーズは、SFの一つの特性を発展させた代表的なもので、また、無二のものだろう。二度と現れるとは思えない。
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