SFアドベンチャー1987年掲載分(前半)


アーネスト・カレンバック
エコトピア国の出現
(ダイヤモンド社)

 『エコトピア・レポート』という作品が紹介されて以来、五年が経つ。実は、それまでも、海外では妙に評判が高かった。どうしてそうなのかが分からない。我が国では、ほとんど話題にならなかったからだ。しかし、本書を読むと、その辺りの事情が掴めてくる。作者の意図が、より明瞭にあらわされている。つまり“エコロジーの思想を (ただ口にするだけではなく) 実現する”という姿勢である。国を打ち立てるほどの、過激な行動を説いている。七〇年代後半の時代を担った“エコロジー”は、今でも根強い信奉者がいる。 『――レポート』 は、そういう意味で広く読まれ、支持された訳だ。

 今回翻訳された本書は、『 ―レポート』 の前編(時代が二十年さかのぼる)をなすもので、アメリカからの独立を描いている。ただ、実際書かれたのは後(前作から六年後)になる。住民運動の実例などを織り交ぜながら、エコトピア国の実現過程に対する、より現実的なエコロジー側の考えかた、手段を書いている。もっとも、フィクションの出来は、前作の方が優れているだろう。作者の意図通りに読まないのなら、だが。

荒巻義雄
幻文明の旅(徳間書店)

 超古代文明に関心を持つ作者の、エッセイ/小説(そのどちらともいえる)作品集である。これまで書かれた伝奇小説のシリーズと、同様の舞台――ムー、イースター島、インド、始皇帝(徐福伝説)などなど――に触れたもの。まずは古代日本とオリエント、中国とのつながりに始まり、やがて、架空の超古代文明へと章は進む。大胆ではあるけれど、冷静な視点から意識的に導かれたとわかる、作品アイデアの原点が窺える。作者は、伝奇ものの書き手として、多くのシリーズを手懸けている。その創作の背景についても、語ったものである。

 最後に、現代伝奇小説の流れを論じたエッセイが含まれる。つまり、そういった、一種のムーヴメントに対する、作者の姿勢が貫かれている訳だ。一貫している分、新聞連載などをまとめた本なのに、架空紀行文集に終わらない中身となっている。近年の作者の長編は、大半が″伝奇″に分類される。それらを理解する上で、意味があるだろう。表紙だけからは分からないが、作品目録 (単行本、解説、アンソロジー収録作) なども収められている。

デヴィッド・ブリン
サンダイバー(早川書房)

 『スタータイド・ライジング』で名を馳せた、ブリンの処女長編である。

 既に二作の長編が翻訳されており、日本での人気も(そしてブリンという作家の全貌も)しだいに明確になってきた。過剰な期待は禁物(!)ではあるが――まずまず楽しめることは保証できる。小説の書き手として、さすがに、八〇年代をときめくだけのことはある。本書は、ややミステリがかったお話だ。外見はともかく、ほとんど擬人化された異星人を(安易に?)多用する点などで、ニーヴンとの共通点を指摘する意見もある。その上ミステリときたら、ますますニーヴンである。

 太陽深く探査飛行に赴くサンシップ――何と、太陽に棲む生命が発見されたのだ。だが、単なる探険行では終わらない。異星人同士の陰謀が渦巻く、そのプロジェクト名が“サンダイバー”計画なのである。本書では、後の作品に現れるほど、強烈な地球意識は見られない。その分読みやすいといえる。結果的には、相当違った印象もあるけれど、まあしかし、八〇年代の“ニーヴン”型作家は、アイデアで勝負せず主張を明確に表現する、ブリン風になるのかも知れない。

水見綾
星の導師(新潮社)

 昨年出た 『不在の惑星』 の続編にあたる。しかし、続編ではあるのだが、本書だけでも物語は閉じているといえるだろう。確かに、『不在―』 を読まなければ、基本的な設定(背景) が分かりにくい面はある。SFを読み慣れない読者に、どこまで受け入れられるかは、分からない。ただ、本書で主張された、“宇宙の構造自体を変えてしまう存在”は、前作の“不在の神”より深みを増し、十分に観念性を持ったアイデアである。

 神が去り、惑星トアコルの人々の間に、疫病と死が蔓延する。魔物が跳梁する中で、少年は神を探す旅に出るが……。

 惑星トアコルという設定そのものが、作者水見稜の実験場となっている。ここには、宇宙のすべてが含まれている。最近のSFでも、出色の設定といえる。おそらく、この舞台は今後も使われていくことになるだろう。どこまで踏み込めるか、楽しみだ。ただ、少し気になるのは、視覚的なイメージの少なさである。“まざまざと”見えてくるものが希薄に思える。描写が最小限なせいもあるだろう。劇的な盛り上げなど、作者の関心の埒外かもしれないが。

竹本健治
腐蝕の惑星(新潮社)

 日常のどこか、知らない隙間に腐蝕が忍びこんでいる。何の不自由もなく、明日に拓かれていたはずの生活に、見知らぬ空白が口を開けている……。

 実はこういう感覚は、代表的なディックをはじめとして、多くのSFで“日常的”に見られるものだ。どこで、その“非現実”とのほころびが顔を覗かせるのか、どんな形で崩壊が訪れるのかが、作者の腕の見せどころである。本書の場合も、宇宙船エンジニアとなる希望に燃えた主人公(少女)が、現実を侵食する空白に、気付くところから始まる。空白はしだいに街を犯す。瓦礫がかつての市街地を埋めていく。友や恋人が存在した記憶さえ、いつの間にか消されている。快適な地球型惑星アンシャンティの生活と、無気味な陥穽―腐蝕との対比はなかなかの迫力だ。幻想小説も書く、作者の資質が窺える。ただ、前半の謎の究明(どちらかというと静的展開)と、後半目覚めた後の空白の正体を知るまで (動的展開) に、少し遊離を感じた。音もなく現実が消失していくのを、期待していたせいもある。結末は、ちょっとSF的に過ぎるのでは?

(本書は、角川書店から『腐食』として再刊されている)

清水義範
蕎麦ときしめん(講談社)

 パスティーシュ作品集とある。最近 (でもないか)では、小林信彦の『ちはやぶる奥の細道』(芭蕉の俳句を、外人が誤解たっぷりに解説するという架空翻訳) などがある。一見ノンフィクションを装った小説、架空インタビュー、そんなものを指す言葉である。いかに本当らしさを感じさせるかが勝負どころ。読み手に、ほんまかいなと思わせれば、半ば成功である。だれもが信じて、架空ではなくなってしまうのが理想だろう。それに近い例もないわけではない。表題作の 「蕎麦ときしめん」の場合、“エッセイを紹介する作者を描いた小説”とでもいえるか。名古屋の地方雑誌に載った記事は、偏見たっぷりに名古屋人を皮肉っている。記事を紹介した作者は、大いに誤解され、名古屋人からは嫌われ、名古屋に住むよそ者からは称賛されてしまうのだが……。その顛末は続編 「きしめんの逆襲」 にも書かれている。清水義範の作品としては、かなり異色な部類に入るだろう。とはいえ、無制限なエスカレーションではない。日常から、現実の倒壊までに至らないのはやや物足りないが、その分本当らしさが増したのも事実。計六編を収録。

中島渉
ハルマゲドン黒書2、3
(講談社)

 毎月大量に書かれる新書の群れは、また幾人かの新人デビューの場でもある。本書は、そのデビュー(新書デビューも含む)作の中から選ばれてシリーズ化された訳で、評価が高かったことになる。ほどよい長さで軽快なテンポ、世界を舞台にかけて、国際謀略からオカルトまでを幅広く取材している。虚実を取り混ぜた情報量の多さが、好評のポイントだろう。主人公は超能力を持っており、世界を制覇しようとする野望と対決する。中身を書いてしまうと、そもそもの発想自体は、随分“当たり前”なのである。それが分かり易さにつながる。どんな話かが分からないと、最近の“いらち”(註・気の短い)な読者には毛嫌いされる。また、作品毎に視点を変えているのもよい。一作目こそ総ての要素が混交していたが、二作目は超能力もの、三作目は解放運動の渦巻く南アフリカが舞台と、描く重心を次々に移している。これは旨さだろう。主人公は、後になるほど性格を鮮明に (激しく) していく。問題があるとするなら、アイデアと舞台の多様性を、いつまで維持できるかだ。人気が出ると、なかなかシリーズを終われない。歯切れの良い幕切れを期待したいものである。

アン・マキャフリー
惑星アイリータ調査隊
(東京創元社)

(欠)

荒巻義雄
宇宙元年新創世期
(徳間書店)

 最近になって、荒巻義雄のシリーズがいくつか完結している。本書は、“ビッグ・ウォーズ”(神人戦争)シリーズの六年振りの新作であり、また第一部の完結編でもある。 (ただし、その間も枝編などの、サブ・シリーズ三編は書き継がれていた)。 神々との戦いに人類が敗れて後、抵抗を続けていた自由都市群が、戦いの末、ついに宇宙に旅立つまでが描かれている。

 このシリーズは、もともと太平洋戦争を物語の基本に置いている。作者自身そう述べていた。実際、対応がつく部分も少なくない。シリーズ開始前後の(映画)スター・ウォーズ現象も、影響したかも知れない。ただ、ここに来て、″SF″との対応が、顕著なのである。これもまた、著者が明確に主張している点である。作品中で意識的に使われている、(往年の名作での)SF用語は、最近のSFでの、道具としてのSFに対する、反論とさえ言えるだろう。 「原点への帰郷」 と作者が書くとき、そこには大きな決意、SFへの問い直しが込められているように感じる。この反問の中から、全く新しいものが生まれる事を心待ちしている。

火浦功
大冒険はおべんと持って
(早川書房)

 いつも思うのですが、とにかく読みやすいのです。バツグンの読みやすさではないでしょうか。マッドサイエンティスト仮免中の 「みのりちゃん」 が巻き起こす騒動の数々、シリーズ第二作品集である。物理的には、段落が多くて会話も多いから、当然平易に読めてしまうのだ。まあしかし、これはやはり作者の流暢さに磨きがかかっている点を、まず評価すべきだろう。澱みなく、過不足なく、おそらく長すぎも短すぎもしない。ほど好い仕上がりである。

 標題作は、こんな展開をする。みのりちゃんがお弁当を作っている (わりあい詳細な描写あり) 。バクハツが起こる。冒険惑星にハイキングにでかける(詳細な描写なし)。制御コンピュータが故障する(詳細な描写なし)。珍発明で危機を乗り切る(詳細な描写なし) 。マーブルチョコで、コンピュータをバクハツさせる(詳細な描写なし)。――ただ、描写というのは、この場合必要がないのである。アイデアをさらりと流すことで、軽やかさが生まれてくるのだ。

 合計六短篇(三作に、世界征服をたくらむライバル、通信教育マッドサイエンティストが登場)が収められている。

ガルシア=マルケス他
エバは猫の中(サンリオ)

 ショートショートから中篇まで、計一八編を収めた作品集。奇想小説である。ラテンアメリカ文学全般でよくいわれるように、我々にとっての異常さは、かれらにとっては日常である。その感覚の落差を味わうのに、最適なアンソロジーだろう。大半は、ごく短いもので、アイデアだけで成り立っている。生きている手、波と結婚した男、首だけが遠く離れて飛ぶ男、夢見ることのみに一生を捧げた男――その最後に、コルタサルの、ジャズシンガーを描いた作品(中篇)が挟まる。この中篇は、どちらかというと、日常に近いところで書かれている。ラテンアメリカの“日常”を知らない者にとって、なぜそれが“異常”に変わるのか、取り混ぜた中身から、朧げに推測できるだけだ。もちろん、アイデアだけで見るなら、既に(SF的に)古びたものもあるだろう。しかし、理性だけで組み立てられていない点が、感覚自体が異質な生活の強みではないかと思える。

 中では、魂が猫へ乗り移ろうかと思い悩むという、マルケスの標題作などが、実に微妙なバランス上に構成されている。不思議です。

アンドレ・ノートン
未踏星域をこえて(早川書房)

 ゼロ・ストーンの続編というか、シリーズ第二作。ひょんなことから手に入ったゼロ・ストーンは、主人公マードックの運命を大きく揺さぶる。相棒のエイリアン猫イートと共に、彼はその石の秘密を探ろうとする。しかし、資金が足りない。さっそく資金稼ぎに乗り出すが、ギルドとパトロールの妨害は執拗だ……。昨年から、ノートンのジュヴナイルが、しばらくぶりで出るようになった。アメリカでは、誰もがSF体験の重要な一人と数えるノートンも、我が国では無名に近い。今でも、子供向きという形では、刊行されていない。だから、必然的に (薹が群れをなして立っている) 大人が読むことになり、本来の面白さの何十分の一かを、かろうじて感じ取るばかりである。確かに、傑作はいつ読んでも傑作なのだ。しかし、一生のその時々に読んでこその秀作だってある。さて、そういう意味では、このシリーズはまずまずと予想される。一作目は、やや退屈だったが、ここにきて面白さを増した。古臭さもない。夢中で読める年頃 (岩波風に書くと、小学生上級から中学生まで) の読者に、とにかくお勧めしたい。

友成純一
宇宙船ヴァニスの歌
(双葉社)

 友成純一のスペオペ。まあ、とにかく話題の作者の連作長篇である。 「バイオレンスSF、スーパー伝奇アクション」 などとあるが、この惹句から連想するような中身ではない。あえていうなら、SMセックスSFかな。宇宙を旅する娼妓船“ヴァニス”に繰り広げられる酒池肉林、はたまた奇怪な怪物の襲来、コロニーの嫉妬に狂った女たちとの戦い、などなどが描かれる。前半は短篇四作からなり、もともとSM雑誌に連載され、途中で打ち切られたというもの。そのためか、文章(描写)がSM雑誌風だ。後半は書き下ろしになる。以後、シリーズ化されるようである。

 粘液と糞便をSFに持ち込んだ点で、ともかくも、異色であることは確かだ。作者は、ワセダミステリでSFファンだった。だから、SFのツボは、それなりに踏んでいると見ていいだろう。SFガジェットはまずまずの水準。読み易さは、まだ火浦功ほどではないものの、こういう内容である以上、ある程度の執拗さも要求される。今回はまだ物足りないけれど、サイバーパンクまでを取り入れて、究極のクダラなさを狙うという、作者の意気込みに期待したい。