SFアドベンチャー1987年掲載分(後半)


ジャック・ロンドン
鉄の踵(新樹社)

 珍しくも、ジャック・ロンドンの近未来小説である。ただ、この未来は我々の過去に既に存在した。1907年に刊行されたもので、社会主義革命と、それを押し潰す独裁政権の登場 (たとえばヒトラー) を予見したものだからだ。ロシア革命以前の時代で、世界的な社会変革の波を反映している。ただ、ジャック・ロンドンが書いたといっても、本書は基本的に小説ではない。独裁政権が、社会主義革命に倒された後(七〇〇年もの未来)に発見された、日記の体裁をとっているけれど、主人公の長い演説を中心にした、一種のプロパガンタなのだ。当時の労働者が置かれていた情況、過酷な労働条件を顧みない資本家たちへの情け容赦のない告発など、小説の完成度を無視した激烈な主張が、本書の中に満ちている。もちろん、作者の予見は、ファシズムの登場を見抜いた点で正しかった。社会主義革命以降の矛盾について言及はないが、『1984年』の書かれるのは、ほぼ四〇年後のことなのだ。しかしこれは、現実の今世紀初頭が、背景にあるからこそ意味をもつ叫びだろう。そういった前提を頭に置いて読む必要がある。

マリオン・ジマー・ブラッドリー
惑星壊滅サービス
(東京創元社)

 ダーコーヴァシリーズの最終巻にあたる。が、これで全巻の終わりではなくて、年代記として最後の時代を描いているのである。ダーコーヴァも六冊目を数えると、設定や登場人物もお馴染みになる。また本書の場合、過去のエピソードなども微妙に関連してくる。 このシリーズは、もともと時代の流れと対応していない。それだけに、一人の主人公の成長を見守る、といった楽しみはないのだが、独立した物語の集積として、SF、ファンタジイなどなど、様々に読めるわけだ。ただ、連続活劇的なシリーズが多いなかでは、どこか異質な印象を受けるかも知れない。一連のお話しではないことを、意識しておく必要があるだろう。
 さて本書では、チエリと呼ばれる両性具有のヒューマノイドが主なテーマとなる。 (標題から連想する内容とは、あまり関係がありません)。 具体的には、異星人との性の問題が扱われる。微妙で難しいテーマを、シリーズのフレームに巧みに結び付けた点が、作者の持ち味である。作者は、決して旨い作家ではないけれど、疲れない、ほど好いペースを保っているといえるだろう。

田中光二
アッシュと地球の緑の森
(講談社)

 シリーズ四作目。一応の完結を見た三巻目から、三年後に書下されたものだ。
 本書でもアッシュはスリンガー(傭兵)として、老メトセラ人の相棒とともに登場する。今回の目的地は地球、滅びかけたその世界から、原始生活を送る人類の末裔たちを連れ帰ること。しかし、単純な任務にしては、異常に重装備の一団だった。しかし、彼らの意図とは別に、地球では全く予想外の展開が待ち受けていた……。精密なアンドロイドの美女、アッシュを恨む部隊の副官、そして、自分の創造した新しい地球を完全にするため、人類の末裔の入手を企む企業体の帝王などなど――と役者は揃っている。また、自然が人工のものに対して優位であるという結末は、最近の作者の志向である。日本でも、同じような英雄物語は、多く書かれるようになったが、アッシュサーガは、その最初のシリーズに数えていいだろう。ただそれだけに、新しいシリーズとの違いを明確に出していく必要がある。アッシュは、中でももっともSF的な要素を備えていた。その点が失われない限りは、他のシリーズに対して、独自の味を残していけるのではないか。

川又千秋
惑星オネイロスの伝説
(新潮社)

 宇宙船メビウス号の、シリーズ第二作。ただし、独立したお話として読める。
 今回の舞台は、″夢見る惑星″である。まるで、おとぎの国の住人のような人々、ライオンの国王、豹の宰相、そして不思議なほど長い彼らの睡眠時間……。
 夢を(おそらくは)、生涯のテ−マの一つに選んだ、作者の書き下ろしである。しかし、川又千秋のそれは、もろもろと崩れていく不定形の夢ではない。また退廃や、不安を誘うものでもない。確固とした、存在感を保つ、一つの世界なのである。そういう意味では、セカンダリー・ユニバースものに近いのだろう。けれど、″夢″そのものを常に連想させる点が異なる。下手に現実と偽らないのである。本書でも、夢の中の現実、現実と同等の夢がテーマだ。
 ところで、このシリーズ、二百ページほどの(長目の)中編から成っている。三作程度をまとめて、ちょうど翻訳長編一冊並。その分、読みやすいことは確かである。アイデアそのものは斬新とまでいかないが、色々な意味で、極めて明快な作品といえる。

マイクル・ビショップ
ささやかな叡知(早川書房)

 待望の 「都市核」 シリーズの長編である。衰退期にあるアメリカ。ドームで街全体を覆われたアトランタは、都市正統派とよばれるキリスト教の宗派に支配されている。だが、そこに白鳥座から訪れた異星人 (シグヌシアン)が現れ、やがて司祭に任じられる……。
 ビショップの翻訳長編としては、本書が三冊目にあたる。もっとも代表的と思われる中編を書き延ばした『樹海伝説』と、ほぼ同時期に出たものだ。他にも、連作短編集がある。既訳の作品を読む限り、この作者の主眼は、あくまで″人類″ (そして、その周辺。たとえば、宗教なども含まれるだろう) でありつづける。そういう意味で、七〇年代の書き手の中でも、真摯でありつづけたといえるはずだ。ただ、ビショップは、小説が決して旨い作家ではない。本書も、どこか中途半端に終わっている。アイデアストーリーと重いテーマが、遊離してしまう場合がある。同じ七〇年代作家でも、ヴァーリイやマーチンらに比べて垢抜けない。時代に乗りきれない、危うさがあるのだ。それだけ、普遍的なSFのエッセンスを強く残したものといえるが。

小説推理編集部
ショートショート劇場5(双葉社)

  「SFワールド」 や 「ショートショートランド」 亡き後、ショートショートがまとまって読める本(単行本形式の雑誌)は、本書ぐらいになってしまった。五冊目を数え、第一集が出てから一年と六カ月になる。七号までの「SFワールド」に、もうすぐ追い付いてしまう。さて、本書だが、やはりアイデアのアマチュアと技巧のプロの関係に変わりがない。ただ、記憶に残ったものを数え挙げていくと、「おとぎ話」 谷甲州、 「里帰り」 岬兄悟、「聞こえますか?」 森下一仁、 「テレフォン」 津山紘一、 「ネコ・レター」 山田正紀、 「通夜の客」 菊地秀行などと、二八編中六編すべて名のあるプロのものだった。どれも、語りの旨さで読ませる作品である。今回は、プロの出来が良かったわけだ。この形態の小説は、バランスなどの勘どころが、大体固まってきている。安心できる反面、なかなか新奇性が出しにくくなっている。読み終えた後、印象を保っておくのが難しい。結局、破天荒なアイデアこそが決め手になるのだろう。アイデアさえあれば、短編より有利かもしれない。年に何作も出ないけれども。

双蛇宮
波璃物語(国書刊行会)
(欠)

谷甲州
星の墓標(早川書房)

 敗けるぺく運命を背負った外惑星連合軍の部隊「タナトス戦間団」は、カリストの秘密基地で、人間の脳を用いた戦闘システム“ラザルス”を発見する……。こうして物語は始まる。
 〈航空宇宙軍史〉シリーズの三作目にあたる。四つの中篇連作からなる、オムニバス長篇である。それぞれが緩やかなつながりを持ち、最後に一つのエピソードに収斂する。そのエピソードは「星と海のサバンナ」と呼ばれる。一見無関係なシャチの物語「ジョーイ・オルカ」が含まれるのも、“星と海”という対比に、すぺてが象徴されるからだろう。本書の物語では、多くの人々の死に至る運命が語られる。それが「墓標」なのである。死にゆく者たちの墓場である“海”は、あらゆる者を呑み込み、決して浮かび上らせない。
 谷甲州の作品は人間臭いものであるけれど、その一方に必ず広大な無辺の空間を宿している。本書で、その無辺とは、“海=宇宙”であり、決して宇宙そのものを描いていない。にもかかわらず、人間たちの運命から、宇宙の存在が確実に感じられる点は、作者ならではの特長といえるだろう。

タニス・リー
銀色の恋人(早川書房)

 タニス・リーのSFマークである――とはいえ、これまでのFTマーク(ファンタジイ文庫)と比べて、特に意識を変える必要はない。同じように寓意を持った、象徴的な物語なのだから。
 ロボット(アンドロイド)に恋する人間というテーマは、題材として無数に存在した。本書に登場するロポット“シルヴァ…”と、一六歳の少女との恋も、そういう意味では新味がない。ただ、タニス・リーの主眼は、理想の恋人に焦がれる少女が、豊かさから貧窮に転落し、最後に自身の成長を知る(教養小説ですな)点にある。古典的であるが故に、このテーマから“SF”を得ようとは、誰も思わないだろう――それだけに、少女の心理的な軌跡が、物語の価値を決定付けるものとなる。しかし、さすがに作者の伎倆に間違いはなく、十分に読ませる中味を保っているようだ。ところで、本書に描かれる未来世界やテクノロジーは、あくまでも寓話の道具であって本質ではない。魔法的存在なのである。本来生じるはずの機械と人間との差異の問題を、作者は実に“幻想的”に処理してしまっている。

グレッグ・ベア
永劫(早川書房)

 グレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』 に続く長編。『ブラッド―』 は、余りに
普通のSFすぎて、やや意外だったけれど、本書も実にフツウのSFなのである。一触即発の世界情勢、忽然と現れた洞窟を持つ小惑星ストーン――そこには、人工の都市が作られており、奥へと永遠に続くトンネルが隠されていた。アメリカの独占に怒り、強制奪取を計るソ連兵との戦い、そして先住者との出会いと、物語は目まぐるしく展開していく。 さまざまな意味で、新しさではなく、旧来のスタイル(安定した文章)と、大衆の一般常識から乖離しない思想 (適度に保守的、あるいは類型的) 、新しい科学的事実(の雰囲気)、以上の組み合わせが、この作者の持ち味のようだ。何も新奇さがないのに、なぜか古臭くはない。八〇年代のSFの、どこが新しいかを検証できる作品といえる。安心して読めるから、ギブスンの韜晦さ(の雰囲気)とは、ちょっと異なる。
 結末が尻すぼみで、前作には及ばないが、まずまずの出来ではないか。ニーヴンではもう古い、最新のフツウを読みたい、という人におすすめ。

フィリップ・K・ディック
アルベマス(サンリオ)

 サンリオ最後の一冊で、しかもこのSFAが出るころには、書店にもないだろう。注文すら、できない状態である。既にお買いになった読者にだけ、意味があるレビューになってしまった。ディックを精力的に出し続けた出版社が、こんな形で失われるのは残念だ。大半の作品は、当面再刊される予定がない。
 本書は、『ヴァリス』の原型として書かれた(と思われる)作品で、もちろんディックの死後に刊行されたものである。登場人物は、ニコラス・ブレイディとフィリップ・ディック。アメリカはファシストの大統領に支配され、反対者はアラムチェックに属したと、逮捕投獄される。そんな中で、ニコラスは宇宙からの啓示をうける……。『ヴァリス』 のように、作者自身が前面に出てくるわけではない。しかし、いくつかのエピソード (作者が実体験したと称する、神秘的な事件) は、そのままの形で使われている。ただ、まだ一歩突き放した、小説としての描写になっている。あの鬼気迫る最終原稿には、距離がある。『ヴァリス』 は、書き上げられるまでに、無数の雛形を産んでいたといわれる。その過程を知るうえで、貴重な作品と言える。

北杜夫
大日本帝国スーパーマン
(新潮社)

 北杜夫の短篇集。日本にひそかに住む老いたスーパーマンが、御国の為とアメリカのゴロツキス−パーマンと戦う 「大日本帝国スーパーマン」 、何故かロンドンのシャーロック・ホームズに招かれた平次が、謎の事件を見事に解決する 「銭形平次ロンドン取物帖」 、コロンブスが上陸したアメリカ大陸、ところがそこには先住者がおり、遥かに進歩した文明を誇っていた 「新大陸発見」 、以上の三中篇が収められている。あえてSFかどうかを問う必要もない。奇妙な味のユーモアという大ベテランの持ち味の範囲内で、まずは安心して読める作品群である。SFでは、昔に書いた作品を集めた 『人工の星』 などがあった。以来、大なり小なりSF味のある作品が多かったが、同傾向で一冊にまとめられるのは、ちょっと珍しいのではないか。ひねくれたSFに疲れた時には、読んで見るのも一興。そういう意味で推薦できる。
 最近では、新人作家も、大半はユーモアに分類される作品を書いている。当然のことながらイマ風なのである。もちろん、それはそれでいいのだが、たまには昔ながらの雰囲気を味わいたいものだ。

J・G・バラード
太陽の帝国(国書刊行会)

 まず、バラード近年の傑作と言っておこう。正直なところ、既訳の七〇年代以降の作品には、あまり興味を引かれなかった。しかし、自伝であって自伝でない本書は、初期作を含めて、もっとも注目すべき長篇作品である。
 大戦前から戦中にかけての上海、そこに住むイギリス人の少年ジムは、崩壊していく居留地 (干上がったプール、無人の住居、座礁した貨物船) や、君臨する日本軍、捕虜収容所での生活、そして、戦争末期のだれも勝者とはいえない、夥しい死体の風景を (ナガサキの原爆の幻影さえ) 見る。読めば分かることだが、至るところに 『沈んだ世界』 や 『結晶世界』 、あるいは 「終着の浜辺」 『残虐行為展覧会』 の断片が、見え隠れる。これは、まさしく終末的世界だ。なぜ、かつて流行ったバラード亜流が、結局バラードに到達できなかったか、その理由がようやくつかめたように思える。
 フィクションとノンフィクションの混在する本書には、バラードの総てがあるというより、バラードの″今″である彼の創造した小説世界へ、原点にある漂白された過去が射影されているといえるのではないか。

C・L・グラント
ティー・パーティ(早川書房)

 元(?)SF作家で、現ホラー作家C・L・グラントの長篇モダンホラー。
 ある田舎町に古くから立つ石造りの屋敷、そこはウィンターレストと呼ばれ、誰も近寄ろうとはしないところだった。だが、町では急に異様な事件が起こり始める。やがて、屋敷でのティー・パーティの招待状が、何者かから送られてくるが……。
 スティーヴン・キングの影響を受けたというだけあって、冒頭の雰囲気に良く似たものを感じた。モダンホラーというと、日本ではレヴィンの『ローズマリーの赤ちゃん』や、キングから紹介が進んだわけで、相当上質の部分から訳されてきた。ところが、ここにきて″並″の作品が入るようになると、もうひとつスタイル自体の狭さが気になる。もともと描く対象に大差がないだけに、出来上がりがおおよそ予想されてしまう。まだ、キングは小説の旨さで読むことができたが、ジョン・ソール辺りになると、そこがもう怪しい。日本でも、これからますます隆盛を極める分野だろうけれど、ちょっと気になるところである。本書も、″ちょっと気になる″部類で、醒めた目で先が読めてしまう類い。

友成純一
血飛沫電脳世界(双葉社)

 <宇宙船ヴァニス>のシリーズ、第三作目。ますます快調のシリーズで、パワーが落ちるというより上がっているのが驚異。二百五十年生きて、体の大半をサイボーグ化した大統領が、ついに中枢神経を犯されて発狂、急遽マザー・コンピュータに意識を移されるが、そこでも電脳空間を暴れ回って、太陽系は破壊の嵐に。そこに、ヴァニスが帰還する……。サイバーパンクSFというわけで、おなじみの電脳空間も出てくる。が、そこに三途の川があって、亡者となったプログラムがうようよ、というのはなかなか異様なイメージ。パロディとして面白いのでは。一作目にあった、単なるエログロはなくなり、そういったシーンにもなんとなくSF的な必然性が感じられる。作品の」k密さが増したのだろう。
 夢枕、菊地につづく新人は、数X人出てきているが、ユニークさと筆力の上でも、かなり有力ではないかと思われる。ファックシーン一つを見ても、今のヴァイオレンス物は類型的に過ぎる。大体が同じなのだ。スケールの大きさを左右するSF味なども、その場の都合、というのも同じ。その点、この友成純一はツボを心得ているようだ。