主人公はやくざの夢を見る。
覚醒すると、彼はプラスチック製造会社の課長である。ただ、この現実は、小説の進行とともに、微細に変質していく。名前が変わり、社名が変わり、地位が変わり、年令が変わる。舞台は、会社でのサイコドラマから、夢の屋敷
(どこまでも長い廊下が延び、閉じられた襖が連なる)に、夢の下町(老いた運転手の操る路面電車が、軒先を掠める)に、
夢の木坂へと連なっていく。途中から、この小説には覚醒はなくなる。どこまでも落ちていく、奈落だけがある。
ここに描かれるのは、無数に多重化された夢である。多重と書いたのは、目覚めなかった夢の底にまた夢が広がり、そのどこかから、また夢が拓けていくという構成にある。現実の“いま”は、一時点に留っているのに、主人公の自分は無数の影を持っている。その焦点が、夢の木坂なのである。とはいえ、“夢の木”が明瞭な姿を見せるわけではない。
夢をテーマにした作品だ。一般的に夢小説は曖昧模糊としている。曖昧な夢をそのまま書くのだから、当然の結果だろう。本書では大きな特徴として、サイコドラマが、不明瞭な夢を説き明かす鍵の役割を果たしている。物語の最後に、具体的なサイコドラマの有様までが描かれる。サイコドラマとは、サイコセラピーの一手法である。参加者がある役割を受け持ち、たとえば、お互いが立場を逆転して演技することで、参加者が知らずにいた隠れた真実を見出だす。一見、夢と関係がないように思える。しかし、この作品の構造も、自分自身がサイコドラマの参加者となって別の自分の役割を演じ、隠されていた本当の自己を追及しているように読める。
なぜ、夢の木坂なのか、なぜ主人公は、夢の木坂を捜し求めることになるのか。具象化され、“見えている”ものの裏に、秘められたものは何か。ただし、総てが説き明かされるわけでは、もちろんない。
主人公には、作者の影もあるようだ。仕事の傍らに小説を書く、五〇代の作家。また、専業作家になるため、勤めていた会社を辞め、裕福に、それとも家族を捨て困窮し、暮らす主人公の姿。そこでのサラリーマン生活は、当然のことながら、デフォルメされている。ありえるか、ありえないかの可能性としてはゼロでも、心の奥底のどこかに、そんな
(恐るべき)
現実が潜んでいるのかもしれない。ちょっと思い付いたのだけれど、
眉村卓の『夕焼けの回転木馬』は、長い帯状の時間に、何本かの作者の投影が、重なり合うという構成で書かれていた。しかし、その自分(作者)たちは、過去の可能性から生まれた影なのだ。同い年の二人の作家が書いた、同傾向の二作品を読み比べるのも面白いだろう。どちらの作品でも、夢の世界の持つあの特有の暗さは、不思議なほどよく似通っている。
心理学は、著者筒井康隆の、昔からの武器である。最近は、この武器を明瞭に使った作品は少なかった。ただ、『虚構船団』、『旅のラゴス』と続く一連の長篇から、準備を万端に整えたうえで、そのうち書かれるだろうという、予感はあった。それだけに、一作ごと別の傾向を求める作者が、構成はもちろん、用語に至るまで十分な計算を込めた、完成度の高い長篇といえる。これまでの実験的作品で試された要素も、数多く投入されている。
(もともとは、『―ラゴス』と同様、雑誌に数箇月おき、二年間にわたって連載されたものだ)。
最後に主人公は、陰惨な眼をした、やくざの夢を見る。彼はやくざを殺そうとしている。
それは、もう一人の自分であり、もう一人の作者である。 |