レムの書評集である。
長年翻訳の待たれていた作品だが、待たされている*{は結構多いから、出版の洪水の中で、ついつい忘れてしまう。本書の場合、一部の作品(『親衛隊少将ルイ十六世』)がSFマガジンに翻訳されてから、もう14年、発表(1971年)自体から20年がたってしまった。
それでもまだ、刺激的な内容である。
書評集といっても、ここに収められた書評の対象は、どこにも存在しない。レムが書こうとして果せなかった、架空の本ついて、自らが評価を下しているのである。自身の表現力の限界に、不満を感じたことがきっかけであるという。
かんたんな読書ガイドは別にして、書評というのは、ある意味で、プロフェッショナルな読者にたいして提供されるものである。それならば、やはり読者として、読み手の立場から、架空の本がいかに面白そうなのかをくだしてみたい。
さまざまなレベルの、アイデアの洪水。
たとえば、『逆黙示録』『性爆発』『あなたにも本が作れます』などは、これだけでは長篇になりそうにない、短篇向きのワン・アイデアにすぎない、というか、書評めかした小説とも読める。
ところが、『誤謬としての文化』『新しい宇宙創造説』となると、逆に小説にすること自体が、不可能に思えてくる。えんえんと続く哲学的論議だけ、という『我は僕ならずや』とか、論理のトリック『生の不可能性について/予知の不可能性について』などもある。
(古めかしいと批判されている)ジョイスのパロディ『ギガメシュ』は読みたくないが、『ロビンソン物語』は、こういう小説が実際にあるとしたら、結構おもしろく読めるような気がする。『とどのつまりは何も無し』は、究極の『残像に口紅を』(筒井康隆)である。たぶん、だれにも書けないだろう。
一方、これは傑作になると思えるのが、アルゼンチンの奥地に忽然とあらわれたフランス=w親衛隊―』とか、失われた天才を探索する旅『イサカのオデュッセウス』である。このバリエーションは、多くのSF(および周辺)に見られるけれど、もし書かれたなら、SFの中でも最高傑作になったかもしれない竣悦なアイデア。
レムは、エンタティメントの書き手として、さほど優れてはいない。本書にも流れる、独特の(軽妙とはいいがたい)ユーモアセンスが、そもそも評者にはあわない。けれど、基礎的アイデアのレベルは、現代―すかすか―娯楽小説と、比較にさえならない。量とか質というより、考え方の土台が異なっているからである。
顕著に現われるのは、物理法則自体がゲームであると説く『新しい宇宙創造説』である。たとえば、セーガンは、この一部分を小説化するのに、上下2巻(『コンタクト』)を費やしている。小松左京の「こういう宇宙」(1974年)も、本書(?)の一部分のアイデアをつかったものだ。まさに、小説レベルを越えた、巨大なアイデアである。
本書のすべては存在しない。したがって、書かれていないものについて、うんぬんしても、意味がない――しかし、発想のオリジナリティを、小説の出来よりも重要視することで、SFは発展してきた。だからこそ、本書のような、生のアイデアが、実在の本を読むのと同等、あるいはそれ以上の衝撃を与えてくれるのだ。
なお、本書は、著者による序文が書評、訳者解説も書評になっている。それをさらに書評するわけで、同じ本に対するレビューを、3つまとめて読めるわけである。ともかく、お買い徳! |