ダンス・ダンス・ダンス
村上春樹(講談社1988/11刊)


SFアドベンチャー
(1989年2月)

装画:佐々木マキ 装幀:永原康史

 88年のアドベンチャーでは、これまで何篇かの純文学作品がとりあげられてきた。たとえば、『デイドリーム・ビリーバー』(三田誠広)とか、『優雅で感傷的な日本野球』(高橋源一郎)とか……もちろん何れも、SFではない。そして、当然のことながら、本書もSFではない。しかし、これら作品は、今現在SFを読むことと、どこか共通する体験を与えてくれる。SFにも時代が反映される。何もサイバーパンクを持ち出すまでもなく、50年代、60年代と、どんな時代でも常にそうだった。主人公や物語の成立ちに、いつも顕われていた。その顕われかたが、共通するのである。

 『風の歌を聴け』(1979)で、村上春樹が群像新人賞を受賞した当時は、『スローターハウス5』や『チャンピオンたちの朝食』のヴォネガット亜流とみなされたことがある。そのころは、誰もがヴォネガットを賞賛していた。ヴォネガットは、60年代から70年代を描いていた。一方、村上春樹は70年代から80年代を描いた。もう今では誰も、どんどん過去へと後退していったヴォネガットと較べたりしない。つまり、村上春樹の作品が、より身近な“時代”になったからだ。

 本書は、一連の作品の続篇にあたる。『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』(1980)は、1970、73年を舞台にする。引継ぐ形の『羊をめぐる冒険』(1982)は、1978年で始り、一応、70年代三部作とされる物語の幕を閉じている。したがって、それを受ける『ダンス・ダンス・ダンス』は70年代を過ぎ、1983年を舞台に再開されるのである。キーワードは“高度資本主義社会”。

 羊の事件の後、主人公は虚脱感を抜け出して、雑誌などの文化的雪かきをするようになった。誰かがやらなければならないが、後には何も残らない無意味な仕事だった。けれど、やがて強迫観念に駆られ、北海道の「いるかホテル」に向う。そこで、ホテルの別の空間に住む、羊男と再会する。羊男は、“踊り続ける”よう忠告を与える。それから、新たな事件=たくさんの人々との、つながりと死が、彼を中心に巻き起こるのである。俳優の五反田君、少女ユキ、片腕の詩人、いるかホテルのフロント係。物質的には豊かで、人間関係に貧困な、どこか哀しい登場人物たちが、つぎつぎと現われる。彼らの個性だけでも、読む価値がある。

 犯人捜しのハードボイルドとも読めないことはない。そう見ると、めちゃくちゃとの評判が高い、リチャード・ホイト以上に破天荒な展開である。実は犯人も、被害者もいないのかもしれない。何も解決しない。誰も幸福になれない。フロント係の女の子は、『ブレードランナー』の結末と同じ役割(精神的救済者)を果すのだが、これだって、主人公の幻想なのかもしれない。だから、主人公は状況とともに、踊りつづける必要がある。そうしなければ、生きていけないからだ。

 本書に結末はない。『羊──』では、世界を変える力を持つ羊の謎が語られた。その決着とともに、主人公の20代の記録は閉じられた。ある意味で、存在証明自体がなくなった。本書では、新たな生きていくべき証明を、探求する旅となる。80年代を生きる、30代の主人公の旅が、語り始められている。まだ、終ってはいない。

 主人公は、はるかに饒舌になった。(物語で、もう34才になっているせいもある)。昔なら、語られることなく終ったことが、執拗に言葉にされている。その点、多少の引っ掛かりもあるが、まずは、一気通読の純文学というところ。