エンダーのゲーム
オースン・スコット・カード(早川書房1987/11刊)


SFアドベンチャー
(1988年3月)

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 1986年ヒューゴー/ネビュラの、ダブル受賞作。以前に出た短篇集『無伴奏ソナタ』に収められた同題の短篇を、長篇化したもの。80年代SFがぞろぞろ翻訳された、1987年の掉尾を飾る作品である。

 迫り来る昆虫型の異星人バガー、コミュニケーション不能の脅威に対抗するために、地球ではバトル・スクールが創設される。そこでは天才少年/少女たちが、対バガー戦争の指揮官として養成されている。“ゲーム”は、スクールでの集団戦闘訓練である。けれどエンダーは、ゲームに独創的な戦法を持ち込み、最年少にもかかわらず、異例な昇進を経て成長していく……。

 短篇に、大幅な書き込みがなされている。ところが、基本的なアイデアは、何も付け加えられていない。ルールに規定された“ゲーム”と、規範の裏をかくエンダーとの葛藤に、大きな重点が置かれている。もっとも読み応えのある部分でもある。ワン・アイデアのあの短篇を、よくここまで膨らませたものだと感心する。
 本書のあとがきには、同年(1985)に発表されたベアの『ブラッド・ミュージック』やスターリングの『スキズマトリックス』を挙げ、これらを制しての受賞を訝る表現がある。はてさて、この書きようが妥当なのかどうか、偶然とはいえ、翻訳も原書の二年後に一斉に出されている。せっかくだから、前記二作と本書とを、ともかくも読んだ印象から比較してみよう。すると、まず作品の成り立ちかたに、大きな違いがあることが分かる。サイバーパンクに分類されるベアやスターリングのものは、本質的にアイデアの作品であり、自由連想から物語を紡ごうとしている。 (少なくとも、そう読める)。

 一方のカードはアイデアの枠をあらかじめ規定し、その範囲をはみ出すことはしない。評価の基準自体が、異なるわけだ。公平に判断して、新しさなら前者、“読み物”としての出来は、後者が優れているといえる。ストーリーを創造する才能と、ヴィジョンを夢想する才能は、なかなか相容れないようだ。ヒューゴーやネビュラといった賞では、マニアではなく、大衆的な人気が意見を左右するだろうから、この結果はまず順当ではないか。もちろん小説のバランス面では、本書の場合も欠陥がないわけではない。たとえば、エンダーの兄弟たちの活躍などは、本筋と有機的に結び付かない。しかし、それも、ストーリーの混乱を招く程ではないのだ。

 オースン・スコット・カードという作者には、もともと読ませかたの旨さがある。舞台となる世界の描写や設定にしても、サイエンスやテクノロジーの“事実”をデータにしていないのに、矛盾を感じさせないだけの説得力がある。これは、SFが本来持つべき技巧である。ただ、同様に語り口が抜群なスティーヴン・キングなどと比べると、SFに対する感性や、登場人物の倫理感など、多くの点で違いが見られる。日常の描写ならキングだ。しかし、プロパーSFならば、明らかにカードが上を行く。SFを読み慣れた読者に、違和感を与えない。倫理感という点で、嫌う読者もいるだろうが (カードはモルモン教徒) 、それらがあからさまに描かれることはない。かなりの変人と思えるけれど、作者と作品は (もちろん) 別である。人物をこれだけ執拗に描ける作家は、今のSF界では貴重な存在だろう。主人公エンダーの苦悩は、十分感情移入ができる。カードの名前は、ずいぶん昔から知られていたけれど、紹介はなかなか進んでいなかった。もう少し訳されてもいいのでは。