藤子不二雄 SF全短編
征地球論

藤子不二雄(F)(中央公論社1988/5刊)


SFアドベンチャー
(1988年10月)

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 藤子不二雄が、大人ものを書き始めてから、もう二〇年近くになる。それらをまとめた、『カンビュセスの籤』、『みどりの守り神』に続き、『征地球論』がでて、藤子不二雄(F)のSF短篇集(計百十五篇)が、一年ぶりに完結した。

 藤子不二雄の場合、SF感覚の正確さが、第一の特徴ではないかと思われる。使われたガジェトは、同じころに書かれた大半の“SF劇画”より、設定や考証など、はるかに優れていた。たとえば、二一世紀の世界を舞台にしたコメディ、『21エモン』(1968)に溢れかえる、アイデアを見てもわかる。

 ほんの一部、標題作となった各作品から紹介してみよう。 「カンビュセスの籤」、破滅後の世界に再現される古代の悲劇、 「みどりの守り神」 は、破滅後の世界に広がる緑のユートピア、 「征地球論」 は、地球人の勤務評定を下す宇宙人たちを、それぞれ描いている。破滅と、そこに至る人々の生活は、重要なテーマとして反復される。神になった凡人、ミクロコスモス、しかし、神の力を持つ凡人は、決して神の摂理を持たない。見知らぬ土地の所有者、宇宙人にいけにえの指名をされた学生、逆転する常識、過去へと足を踏み入れた男、永遠の果てにある忘れ去ったはずの昨日、過去への回帰、人生のやり直し、ありふれた生活の裏に潜む真相、分裂した三人の自分、テレパシーを持つキノコ、人類家畜説のヴァリエーション、そして、老人達の末路……。

 これは『ドラえもん』(1970〜)に典型的に現れる設定だが、本書の短篇でも、ダメ人間(あるいは、なんでもない凡人)の主人公が突然選ばれ、万能の装置(なんでも箱=4次元ポケット、別世界)を手に入れるというパターンが、多くを占めている。ワン・アイデアを積み重ねる労力は、並大抵のものではない。今日のSFがその道を放棄したのも、新しさが得られなくなった(と思われた)からだろう。だが、本書では、過去のSFのスタイルが、“生活ギャグマンガ”に再生され、飽くことなく繰り返される。このパターンは、藤子不二雄マンガでは、何回どころか何百回も繰り返されてきたもので、ある意味ではデイックの白日夢とさえ、対比できるものだ。ディックが“悪夢”なら、藤子不二雄は“夢”を現実化する。まさに両面の存在である。しかし、そのどちらもが、あるがままの日常=現実と対立している。

 狂気と、われわれの生活との近さを教えてくれたのは、ディックである。その狂気と夢も、極めて近い世界なのだ。日常は何の変哲もなく描かれる。主人公たちは、その日常に半歩遅れて生きている。いきざまは、同情を誘うというより、姑息でなさけない (たとえば、のび太くん) 。アウトローになるほど落ちこぼれず、かといって、積極的に他人を出し抜く術もない。そこに、神々の救いの手が (あるいは破滅の魔手が) 差し延べられる……。戦慄の瞬間である。

 個人的なことになるが、藤子不二雄といえば、まず思い出すのが『海の王子』 であり、『ビッグ1』なのである。三〇年前の作品だ(!)。三十代以下の、大半の世代にとって、活字とのつき合いよりも、 (少年週刊誌という形での) マンガとの出会いの方が早い。だから、評者の場合も、絵の記憶が最初にある。その絵が 『海の王子』だった。SFマンガと聞いて、手塚治虫や松本零士などの大家を思い出せても、なかなか藤子不二雄は出てこない。けれど、多くのSFプロ・ファンの原点に、位置している作家ではないだろうか。