「箪笥」
というのは、もう十三年も前に書かれた作品である。これだけで、いくつものアンソロジーに収録された傑作だが、同じ能登を舞台にした九つの短篇が、一冊にまとめられた。
半村良は、東京生まれの東京育ち、能登と直接の関係はない。ただ、祖父の家が奥能登(能登半島の先端)の旧家で、戦争中そこに疎開するという経験を持つ。その家の土蔵で、伝奇小説や私小説などを読み漁ったことが、作家になる遠因になったという。そして、本書の舞台も奥能登である。能登はまだ北陸のとばくちで、近畿圏からさほど離れてはいない。けれど、奥能登だけは厳しい自然環境もあり“隔絶された”印象がある。本書の短篇は、実在の民話を素材にしたわけではないが、奥能登の雰囲気を、どこかに感じさせるものである。
方言だけで物語は描写される。読み手に向かって、訥々と語りかけられる。能登を思わせる作品ばかりではなくて、民話にもっとも近い
「縺れ糸」 、ファンタジイである 「夢たまご」 、和風怪談の
「仁助と甚八」 、ホラー(カタカナが似合う血を見る話)が
「雀谷」 、 「蟹婆」 あるいは
「蛞蝓」など、これら幾種類かの小品の集合体。やはりベストは、以上の要素総てが含まれる
「箪笥」 だろう。
モダンホラーが、ある程度のブームを形成しそうな雰囲気がある。海外に対して、国産の同じムードの作品は何かと言うと、まだそれらしきものは少ない。呪われた家のパターンは、日本なら奥能登あたりの巨大な旧家が対応するのだろうか。
「箪笥」
は発表された当初、斬新さが話題になった作品である。構成的に無理はあるけれど、この長篇版も候補に考えられないではない。
京城は、しかしソウルではなく、ケイジョウと呼ばれるのである、この世界では。
昭和六十二年、朝鮮という国はどこにも存在しない。主人公は日本の言葉を話し、日本人の名前を持たされている。古来の言葉は完全に抹殺され、誰一人知らない。本土の人々との格差に悩みはしても、真相に気付く者はいないのだ。大日本帝国は満州、台湾、朝鮮半島を勢力下に収め、揺るぎない支配を誇っている。中国は国民党と、共産党の2つの国家に分裂し、日本帝国に対抗する力はない。アメリカは、軍人の政治が続く日本の友好国である。だがある日、彼は、見知らぬ言葉で書かれた詩集を見つけ出す……。
もうひとつの世界が描かれている。今年は、同種の物語が多く出版されたが、もっとも異色な作品といえるだろう。もし、伊藤博文が暗殺されず、朝鮮支配が効果的に進み、太平洋での戦争が生じなければ――けれど、物語は不思議な静けさの中で、主人公の目覚めの旅として書かれている。強烈な告発も、憎しみもほとんど表に現れない。裏面に潜む重量感は、作為的な虚構(たとえば、ホーガンの『プロテウス・オペレーション』など)を遥かに越えた重い“慣性”を持っている。日本人が、ここから何を読み取るかが、ある意味で問われる。
作者は韓国人だとあるが、詳しいことは分からない。詩人で、自作の詩を多くはさんでいる。失われた自国語や祖国に対する望郷など、あるいは在日韓国人ではないか、という気もする。デイトンの『SS・GB』と同じく、手段としてのSF手法を取る。しかし、細かな引用で明らかにされる並行世界の描写は、破綻がなく巧みである。手に入りにくい本だが、ぜひ一読をおすすめしたい。
ロバート・A・ハインライン
ラモックス(東京創元社)
宇宙怪獣ラモックスは、以前に角川文庫(一九七六)から出ていた
(七一年の岩崎書店版と同じ福島訳)
こともあって、ご存じの方も多いのではないかと思う――が、絶版になって久しいから、始めてという人が今では多数派だろう。児童書として翻訳されたハインラインは、最初期の『レッドプラネット』や『宇宙船ガリレオ号』などが有名で、既に三〇年前に出版されていた。そういう意味では、本書は比較的新しい部類に入る。今回の『ラモックス』は、完訳版である。これまでのものと比べて、約二倍の長さになっている。
スチュアート家で、何代にもわたって飼われてきた宇宙生物は、ラモックス
(のろま)という愛称で呼ばれていた。ある日、ちょっと散歩に出たラモックスは、町中を大混乱に陥れるが、ちょうどそのころ正体不明の宇宙船が地球を訪れていた……。
ハインラインがジュヴナイルを書いたのは、一九五〇年代から、六〇年代の始めにかけてである。その作品には、大人の既製概念に挑戦していく少年少女が描かれている。たとえば、日常の瑣末事にかまける大人と、親離れをしようとする子供たち。本書でも、子供の方から親子の縁を切ることや、宇宙へ旅立つ息子を引き止めようとする母親に対する視点など、相当に冷酷なものがある。“自立”こそが作者の主張なのだ。反面、大人社会の難しさも表現されている。決して、前途は平坦ではないのだと。たとえば、宙務省の事務次官キク氏の苦悩が、ユーモアを交えて、見事に描き出されている。自立と、その後に待ち構える開拓の苦しさ。少年物と大人物との区別をつけるなら、その点が強調されているかどうかを見てもいい。たいていの人が同じことを言うでしょうが、まずはおすすめ。
島田雅彦他
龍の物語(新宿書房)
同じ出版社から、去年“兎”をテーマにしたアンソロジーが出されている。本書はその二作目で、“龍”をテーマにした、十二の物語+エッセイが収められている。辰年の、干支アンソロジーというわけだ。ありそうで、意外にこういう形で、本がまとめられるのは珍しい。
内容は種種雑多、五篇の小説 (マキリップの翻訳を含む)
、評論/解説が四篇、エッセイ/図版などが三篇、いずれもドラゴンを対象にしている。
(ノンフィクションを読んで、勉強することもできます)
。SFと直接関係する作品は、井辻朱美の小説と、草森紳一のSF作品にも言及した評論くらいだが、今年にちなんで、たまにはこういう本もいいだろう。
龍は干支の中で、唯一架空の生き物である。だれも見たことがない。にもかかわらず、龍、ドラゴンはおなじみの生き物だ。といっても、西洋と東洋では相当に見方が異なる。いわゆるファンタジイで描かれるドラゴンは、中世騎士物語の延長上にあって、“退治されるべき悪しきもの”である。
(中世ヨーロッパでは、実在が信じられていた)
。我国のファンタジイも、現状ではゲームの世界に偏在していて、これは極めて規格化された、西洋ファンタジイの流れにある。ドラゴンは、高得点(?)の倒されるべき怪物なのだ。一方、中国では君主の象徴、高貴なるものなのである。香港のカンフー映画の“ドラゴン”も、同様の考えによるのだという。コミックに一部例外があるけれど、こういう視点での日本のファンタジイ小説は、なかなか少ないようだ。そういえば、まがいものでないオリジナルな大人向き冒険ファンタジイは、最近あまり見かけませんが。
短篇では、我が国でも定評のあった、スターリング期待の長篇である。単行本としても初紹介。また、サイバーパンク最右翼の作家でもある。
これは、宇宙を舞台にした、人類進化の物語だ。それほど遠くない未来、宇宙では無数のコロニーが建設され、既に地球との交流もとだえたまま、それらは独自の社会を構成していた。肉体を生物的に、あるいは機械的に改造した住人たち。彼らの無重力で閉鎖的な空間は、これまでとは全く異なる人類を生み出しつつあった。“スキズマトリックス”とは、宇宙に広がり、やがて異星人との接触でさらに変容する、分離分権社会を意味する言葉である。お話は、月の衛星軌道にあるコロニーの住人リンジーの、コロニー間を渡り歩く、その遍歴を軸に進められる。
上手な作品とは、とても言えない。長篇ではあるのだが、一貫した組み立てがなされているようには、思えないからだ。難しいことは書かれていないが、特に前半は発散気味で、気がそがれる展開だ。――しかし、それでも本書は意欲作である。“人類の進化”という、SFの王道テーマを正面から描こうとした作家は、久しく現れなかった。七〇年代作家には、まず少なかったのである。というか、興味を引くテーマではなかったのである。それに、同じハイテク小説の八〇年代サイバーパンクでも、シニカルなギブソンあたりとは、スタンスが異なるようだ。八方破れさがある分、ベアのように、枠組みの限界が見えてしまうこともない。本書が、ファッションとしてのサイバーパンクに適合するかどうかは別にして、現代“SF”の最先端であることは、間違いがないだろう。
フィリップ・K・ディック
悪夢機械(新潮社)
フィリップ・K・ディックの短篇集である。浅倉久志によってオリジナルに編まれたもの。未訳の作品ばかりが選ばれている。ディックの長篇は多くが紹介されている。それに比べれば118篇という短篇は、まだあまり翻訳が進んでいないといえる。(そのうえ、ディックを精力的に出していたサンリオが消えた分(長篇17冊、短篇集4冊)今まで読めた本も、三分の一近くに減ってしまったわけだが)。
本書では、ディックが短篇を量産していた初期(五〇年代前半)から8篇を、再び短篇を書き始めた八〇年代前後から2篇を選んでいる。ディックの短篇は、従来、長篇より評価が低かった。主にワン・アイデアで書かれていることや、結末がパターン化しすぎていることなどが、その原因だった。しかし、このパターンは二回三回の繰り返しではない。極論すれば、作品の総てがそうなのである。ディックのスタイルが、SF界を越えてある程度一般化した今では、このパターン自体が好まれる場合もあるだろう。これはもはやアイデアではなく、一種の現実認識、世界のあるがままの捕らえかたなのである。時間が崩れ、友人が親子が、信じていた日常が崩れていく、そんな崩落の認識である。
この中で、さらにベストを選ぶのは難しい。本当の現実は何者かが作っているという
「調整班」
、誰を信じればいいのか、狂っているのは自分達なのか
「スパイはだれだ」 、機械に育てられた子と親との断絶
「新世代」 、未来を予見し、予定犯罪者を検挙する警察
「少数報告」 、あらゆるものをコピーする異星生物
「くずれてしまえ」 、夢と現実の交錯する 「凍った旅」
……。今現在の現実とディックの悪夢との近さが、あらためて分かる作品だろう。
『機械神アスラ』に続く、著者二冊目の長篇小説である。なるほど、たとえば『処女少女マンガ家の念力』などは、オムニバス形式で書かれていたから、一貫した長篇小説として本書が二番目になる。短篇集『銀河郵便は“愛”を運ぶ』で、SFA読者には、お馴染みのシリーズでもある。
汎銀河郵便局の郵便屋、イルとクラムジーは、惑星リーサックからコンスールーズ人一人を運ぶよう命じられる。彼らは何でも運ぶのである。リーサックでは、惑星全体が“階級”というゲームを行っている。二人は、ゲームに参加しながら、目的のコンスールーズ人を探すのだが……。
ゲーム世界を舞台にしたお話しだから、当然それらしい描写――空中庭園、地下迷宮――も出てくる。ただ、“執拗”な描写は、いつものように少ない。イメージが点在する。量感ではなく、触感として感じられる。事物の全体像というより、主人公達の見える範囲のありさまなのだ。実際、このリーサックという惑星が、一体どういう世界なのかは、最後まで分からない。一方で、カジノで行われるカードゲームが、妙に詳細に描かれていたりする。大局的な見方が少ない。
大原まり子という作家は、“ある一つの雰囲気”(それは、具体的な事象ではない)とでもいえるものを、描こうとする。本書のシリーズにおける、主人公クラムジーの魅力と、イルのユーモラスな当惑などである。そこを中心にして、物語が回っていく。普通ならば、物語の展開で付随的に現れることが、逆に物語を形成する基本となっている。これを小説にまで仕上げるのは、並たいていの事ではない。その点に、他の作家と違った面白さがある。
『エリヌス―戒厳令―』に始まる、航空宇宙軍史の四冊目。『エリヌス―』は、外惑星動乱から二十数年後の物語だった。中篇
「仮装巡洋艦バシリスク」
は、さらに時間が経た未来のお話しで、一方『星の墓標』は、動乱終期から戦後までを―片隅から―、一兵士の視点から描いたものだ。一転、本書は動乱の中枢で起きた、外惑星連合軍内部の政治的な闘争が書かれている。そういう意味で、まさしくポリティカル・フィクションなのである。“物語”を書ける作家は少ない。何も日本国内だけの話ではなく、海外を含めても、緊迫感を伴う文章には、そうそう出会えないものなのだ。段落は少ない。ページが、白々と空白で埋められることはない。描写も多くはない。読みにくいと評されたこともある。しかし、本書からは、軽妙さの代わりに、歴史の胎動を描こうとする気概が窺える。文章も、初期に比べれば、ずっと簡潔で短い。中枢の指揮官と現場の下士官という、両端の対比も効果的だ。最初期の『エリヌス――』は、さまざまな事件や伏線を、過剰に詰め込みすぎた内容だった。クーデター、軍の介入、戒厳令など、これらは本書を含む、後の作品で描き直されることになる。
未来史ものは、過去、多くの作家が手がけてきた。最近は、同一の舞台装置を描くロールプレイング・ゲーム風が多数を占める。しかし、未来史ものには、それなりの良さがある。繰り返し同じ人物や宇宙船を描き、登場する度に、どこか違った顔立ちを見せることができる。それは、無人襲撃艦ヴァルキリーや、商船改造の巡洋艦バシリスク、タナトス戦闘団ダンテ隊長たちだ。シリーズものは、しだいに希薄化するのが通例だが、まだその兆しはない。逆に充実感を増した。