SFアドベンチャー1988年掲載分(後半)


F・ポール・ウィルスン
触手(早川書房)

 ザ・キープ(『城塞』)、ザ・トゥーム(『マンハッタンの戦慄』)、に続くザ・タッチである。作者は、初めから、一語の題名で小説を書いていたわけではない。ヒットした、最近のモダン・ホラー三作品以降のタイトルが、同じ形式に統一されているのである。
 主人公は医師である。平凡な家庭医(専門医ではない町医者)だった彼は、浮浪者に触れた瞬間″癒しの手″を得る。あらゆる病を″癒す″力を手にするのだ。だが、それは、恐ろしい犠牲を伴うものだった……。
 もし、あらゆるものを黄金に変える手があったとしたら・・だが、当然予測できることながら、(ミダス王の寓話以来の)悲劇がその後に姿を現す。本書の場合も、主人公はペテン師として医療現場から追われる。作者のホラーは、原則としてスプラッターではない。非アメリカ世界(東欧、インド、ベトナム)の禁断の地に足を踏み入れた、欧米人にかかわる、因縁話が主軸に置かれている。概して、その因縁は呪われたものであり、おぞましいものとして描かれる。たいていは偏見に満ちた描写となる。これはしかし、読み手の常識に反しないだろう。残念ながら、ホラーの世界では、我々の日常にないもの=敵なのである。ウィルスンの旨いところは、非日常に対する日常側が、単純な普通人でない点だ。トランシルヴァニアの古代の魔物対ナチス(城塞)、インドの怪物対アウトロー探偵(マンハッタン・)、そして、万能の癒しの手対医療体制に反対するはみ出し医師と、視点を一つ外した上で物語を作る。だから、複数の対立(敵対主人公、主人公対一般社会)が生まれて、常識的な結末に終わらない布石が打たれるのである。本書も、結末は、ハッピーエンドを一歩踏み越えている。

菊地秀行
古えホテル(王国社)

 表紙を見て、ポール・ギャリコか、アーウィン・ショーと思ったら、菊地秀行だった。そしてまた、作者も都会小説を狙っていたのである。
  「血飛沫も、死体も、怪物も出てこない菊地秀行」 というだけで、目新しさを感じるかもしれない。都会小説と聞くと、常盤新平らによって紹介されてきた“ニューヨーカー”を思い出す。都会を舞台にした、刹那の出会い――垣間見える意外な人間関係、あるいは大都会に潜む幻想――を描く洒落た短篇というイメージがある。本書もまた、ホテルを舞台に、主人公のちょっとした、非日常的な経験が、九つ書かれている。古いホテル、見知らぬ少女を見たホテルマン、四十年前に去った妻を探し続けた老人、決して老いない泊まり客、もう存在しない過去のホテル……。
 男と女、束の間の関係が、舞台のホテルでは、何十年かの間を置いて、ふと。甦ってくる。しかし、この短篇の主人公―都会人―は、そこで大きな動揺を見せることなく、わずかに訝しみ、惑うだけである。結局、都会とはそんな所なのだから、と。
 都会小説といっても、街角の雑踏が描かれるわけではない。むしろ、描かれる風景は、ホテルの一室やロビーの片すみだけである。描写は三行以内、会話で情況が説明される。ユーモアを含んだ、軽い幻想の香りといった味わいである。ちょっと違うのだが、たとえていえば、村上春樹風の雰囲気を持つ。ただ、古えホテルの題名が示すような、過去へのノスタルジーだけで書かれてはいなかった。むしろ、時が葬り去ろうとする思い出を、執拗に追い続ける登場人物が多いのだ。都会に対する作者の姿勢を知る上で、興味深い作品集である。

マリオン・ジマー・ブラッドリー
異教の女王 アヴァロンの霧1
(早川書房)

 アーサー王の物語である。ファンタジイはもちろんのこと、SFでもその影響は大きい。たとえば、魔剣エクスカリバー(凡百のヒロイック・ファンタジイに数知れず登場)、魔法使いマーリン(アーサー王と、たいていペアで登場)、円卓の騎士(後世になって脚色された、中世風“騎士”)、また、聖杯伝説(ディレーニイの『ノヴァ』にも象徴的に現れる)も、おなじみの題材だろう。映画や音楽でも珍しくはない。考えてみれば、イギリス国内の(半ば)伝説の人物が、これだけ何度も語られるのは――英語圏だけのこととはいえ――不思議な現象である。
 さて、本書はサクソン人の侵略で国が乱れた、アーサー王誕生前の時代から、一七歳で即位するまでを描いている。しかし、お話しの語り手はアーサーではない。その母親イグレインや、姉モーゲン(モーガン・ル・フェイ)なのである。敵対者の妻から、一転してイギリスの宗主ウーゼル・ペンドラゴンと結ばれ、アーサーを産む母。非キリスト社会の聖地アヴァロンで、巫女となり、やがて妖姫と呼ばれる娘。なるほど、面白い視点ではある。“女たちのアーサー王伝説”というわけだ。アーサーは、やがて戦いに敗れ、アヴァロンへと帰って行くのだが、娘(モーゲン)はそれを見守ることになる。また、古代アトランティスとの関連などを示唆しながら、時代を越えた、新たな英雄物語を描こうとしている。ダーコーヴァとは、やや趣の違う、ブラッドリーの世界である。
 一冊の本を四分冊にして、なお五百ページになってしまうという、長い長い物語。簡単にアーサー王を読みたいという方は、手に入れやすい『アーサー王の死』(ちくま文庫)をどうぞ。

神林長平
ルナティカン(光文社)

 神林長平が、毎年一冊、光文社文庫で出している、書き下ろし長篇シリーズ第四弾。マニア受けする作家だが、一般ヤング向けのこのシリーズでも、SFであってアニメのノヴェライゼーション風ではない点、さすがに妥協はない。
 前回の舞台は月世界だったが、今回も同様。主人公は“自由”探偵で、巨大アンドロイド製造会社に雇われ、一人の少年の護衛についている。少年は、アンドロイドの両親に育てられていた。月の都市には巨大な地下があって、ルナティカンという自由の民が住んでいる。彼らは、地上の人々から蔑まれる存在だった。少年は、彼らが売った子供なのだ。ある日、地球から訪れた(女性)作家をきっかけに、探偵自身の秘密が明らかになる……。
 複雑な人間模様が描かれる。ルナティカンの兄弟親子関係、身分を隠した探偵、偽の親を持つ少年、少年を利用するアンドロイド会社の主任、人権擁護の立場から乗り込む作家、それらをさらりと流している。何百ページも費やさない。機械に育てられた少年と、地下世界の被差別民という設定が興味深い。マクロな立場を重視せず、情況のただ中にいる人の目からだけで書いている。本書は、ほとんど会話だけで成り立っている。あいかわらず、描写より会話を重視する文体だ。処女作からの特色だが、最近は傾向が強まったように思える。深刻な議論はなく、独特のユーモアを含んだ雑談から、舞台を描き出す。会話は簡潔で、冗舌さとは無縁の作家である。ただ、長さの制限があるためか、中身の割に短かすぎたようだ。作家や少年の行動のこだわりに、説明不足を感じる。社会的、あるいは感情的な必然性が、いま一つ納得できないのである。

ジョン・バース
スロー・ラーナー(筑摩書房)

 トマス・ピンチョンの特集が雑誌 「海」 に掲載されてから、既に十年が過ぎている。当時の 「海」 は、ラテン・アメリカ文学などを積極的に紹介しており、もうひとつの“SFマガジン”だったのだ。そして、ピンチョンは『重力の虹』や 「エントロピー」 が話題を呼んで、沈滞気味の七〇年代SFプロパーと対比された。以来、『V.』、『競売ナンバーの叫び』などが翻訳され、『重力の虹』を除く長編はすべて翻訳されている。というか、短篇集である本書を含めて四冊のみ、実はそれだけしか作品を出していないのである。にもかかわらず、忘れ去られることはない。
 スロー・ラーナーは、1984年に出版された最新作である。けれど、大半は、二〇年以上前、無名時代の短篇だ。虚無感が漂う 「少量の雨」 、ゴミ捨て場の中での会話 「低地」 、話題の 「エントロピー」 は“宇宙の熱死”の倦怠が会話に見え隠れする。後に『V.』の一章に書き直される 「秘密裡に」 、少年達のちょっとした経験 「秘密のインテグレーション」 と、五作品が収められている。加えて、作者自身の長い序文が、冒頭に置かれている。序文を読んでみると、ピンチョンは、実体を伴わない概念から、作品を作ることを意外にも嫌っていた。そもそもSFは、典型的な“概念”の小説だから、この考えかたとは相容れない。しかし、本書の小説は、いくつかが“SF的”という範疇で読める。我々がピンチョンを読むのは、やはりその点があるからだろう。SF読者が、嘘の実体などということを、改めて意識することはない。けれど、同時代と呼ばれるSF作品は、あからさまな実体を持っていることが多いのだ。概念と実体とを、考え直してみるのも面白い。

筒井康隆
薬菜飯店(新潮社)

 標題作は、あえて言うならば、願望充足ファンタジイである。神戸のとある路地裏に、薬菜飯店がある。薬菜とは、文字通り薬になる料理のこと。食べれば、たちまち体の毒素が溢れ、肺、内臓、血液から、とめどなく流れ出す。主人公=作者が、こういう願望を持っているのかどうかは分からないけれど、料理の細密な描写と合わせて、絶妙のバランスで書かれている。
 昨年まとめられた『原始人』以来の短篇集。初出誌が多岐にわたるせいか、作品の内容も様々である。夢こそが現実、虚構こそが真実という著者のテーマが語られた 「法子雲界」 、 「エロチック街道」 を思わせる世界 「ヨッパ谷への下降」 、サラダ記念日の一首一首を精密にパロディ化、本歌を凌ぐ (かもしれない) 「カラダ記念日」 、まさに元祖スプラッタ 「イチゴの日」 と 「偽魔王」 、また、正統派SFスタイルで書かれた 「秒読み」 など、計七篇である。ここ数年間、著者の創作活動は、かつてないほど幅広い。今年に入ってからも、既に『驚愕の曠野』や『新日本探偵社報告書控』、対談集や評論『ベティ・ブープ伝』などなどを出し、全く重複しない (当然シリーズ物もない)驚異の活躍をしている。
 ただ、今ほど、著者の感性に、時代が近付いたことはなかった。かつて、風俗の表面的な風刺にすぎないと批判されたものが、今日のたとえば、“ポスト・モダン”と評される作品群を、既に先取りし、融合していたといえる。筒井康隆以後に、同種の作品を書きうる作家は、まだ現れていない。日本では、 (ニューウェーヴ、サイバーパンク等) ムーヴメントに作家が結集することもないから、それも当然のことかもしれないけれど、それ以上に、著者の独自性が高い結果なのである。

S・Fマガジン・セレクション1987
(早川書房)

  SFマガジンは、六〇年代に小松左京、眉村卓、筒井康隆といった大家を、七〇年代前半に半村良から田中光二、山田正紀ら第一線の書き手を生み出した。しかし、それ以降、新井素子、栗本薫、夢枕獏、菊地秀行ら、ちょっと思い付いた名前は、マガジン外から登場した作家たちだ。相対的地位の低下した中で、八〇年代は、むしろ翻訳の比重を増した。日本のSFには、勃興期直後から独特の二重構造があった。中身こそ変わったが、それは今でも続いている。(欧米SFの)翻訳と (日本作家の) 創作という流れである。本書は、その後者のみを網羅した、年刊傑作選である。ただ、あとがきで、編集長自ら認めるように、サイバーパンク元年であるはずの去年のアンソロジーとは、考えにくい内容である。辛うじて、コンテストデビューの新人柾悟郎に、その片鱗がうかがえるのみだ。編集部を挙げて、サイバーパンク・キャンペーンを組んだにもかかわらず、創作とはほとんど無関係だった。翻訳ファンの中には、我国の創作レベルの低さを嘆く声すらある。
 しかし、アメリカと日本との動向がリンクする必然性、必要性は、今のところない。日本SFが、国内消費専用だからである。この誤解は、翻訳もまた、日本語で書かれた創作の一形態であることに、原因がある。
 さて、本アンソロジーのベストは、中井紀夫の終わりなき交響楽を演奏する人々 「山の上の交響楽」 、柾悟郎のサイバーパンク風主人公+夢枕風悪役で書かれた 「邪眼」 、草上仁の幸運がクレジット化された 「ラッキー・カード」 などである。単独雑誌のベストでは、どうしても作家に偏りが生じてしまう。毎年、新しい顔をどれだけ含められるかが、年刊の価値を決める要因となるだろう。

クリストファー・パイク
タキオン網突破
(東京創元社)

 ジュヴナイルである。作者がティーン相手を専門にする作家で、SFは初めてと聞くと、常識的には期待しないほうが無難である。しかし、意外に楽しめるでき映えだった。
 春休みに暇を持て余した少年少女たちが、偶然、恒星間ジャンプできるチャンスに巡り会う。ところが、彼らの選んだ目的地は、禁じられた区域、タキオンの網でふさがれた彼方だったのだ。そこでは、折しもノヴァ爆発が起こり、一つの惑星世界が滅びようとしていた。けれど、少年たちが見たのは、災厄から逃れようとする異星人の、旧式で巨大な船団だった……。
  「太陽系最後の日」 +『スペースキャンプ』というわけ。設定は、全くクラークの初期短篇として有名な 「太陽系―」 のパクリである。クラークの短篇は、“健気な人類”に対する賛歌でもあったのだが、1946年のクラークから、1986年のパイクまで、四〇年の時間は、どういう差になって現れたのだろうか。たとえば、神の力を持つものは逆転されて、人類の側になってしまったし(傲慢ですな)、助ける側も(安全保証うんぬんで)単純な動機では行動できなくなった。この辺りは、作者のクラーク作品に対する、現時点からの批評とも読める。ただしその一方で、大人の小賢しさに対比されて、少年の純粋さが救いとなる結末が置かれている。さすが、ヤングアダルト作者といいたくなる。とはいえ、設定のご都合主義やお涙頂戴(果ては、アメリカ的倫理感まで)を込みにしても、本来ジュヴナイルが持っているべき爽やかさは、保たれている。登場人物に、悪人は結局いなかった。こればかりでは辟易するけれど、たまには読んで見たいな、というタイプである。

マイクル・ムアコック
剣の中の竜
(早川書房)

 なぜ今頃になって、ムアコックが“エレコ−ゼ”ものを書いたのか、その辺りの理由は定かではない。エルリックやコルムなど、作者のヒロイック・ファンタジィは、ここ十年ほど書かれていなかったためである。けれど、その多くは毎年確実にリプリントされていたから、大半の読者にとっては、待望久しいという印象はなかっただろう。出版戦略上の判断があったせいかもしれない。さて、本書であるが、標準 (以前の作品は、文庫本三百ぺージ以内という中身で、ほとんど変わりがなかった) よりいくぶん長く、やや複雑で、いつもの淡泊さとは印象が異なる。
 夜毎の声に呼ばれて、今回エレコーゼ=ジョン・デイカーは、<混沌>の手を借り六界を征服しようとする、王女シャラディムの野望に立ち向かう……。
 本書の終わりで、主人公は永遠の戦士から解放され、再び人間に復帰する。この、戦士とただの人間との間で、思い悩む部分が、標準より長いお話しの主要因である。意志に反して呼び出され、しかたなく戦うというパターンは従来通りだ。けれども、ヒットラーまで登場させて、英雄崇拝を (むしろ類型的に)揶揄した結果が、物語の面白さにどれだけ寄与したかは不明である。かえって、エレコーゼの存在感を薄めたように思える。解説には、それこそがムアコックの意図だとあるが、純粋に小説として見た場合に、はたしてどうだろうか。作者の信条の変化が、悪影響を及ぼしているようだ。
 ところで、エレコーゼものは本書以前にも出てはいる。ただホークムーンの続篇である“ブラス”のシリーズに含まれるので、まだ翻訳がない。本書は、その後を受けているために、違和感を残すかもしれない。

山田正紀
延暦十三年のフランケンシュタイン(徳間書店)

 作者が、どういう意図でこの題名を選んだのか、正確な理由は分からない。反魂の術で死体から再生された、もう一人の空海を、フランケンシュタインの怪物になぞらえたからだろうか。しかし、本書は“怪物もの”でもなんでもない。 「羅生門」 を舞台にした 「ウィリアム・ウィルソン」 なのである。そういう雰囲気に近い。
 時は平安初期、標題にある延暦十三年 (七九四年) は、平安京(京都)に遷都があった年である(日本史を思い出してください)。当時、既存の仏教は堕落し、世は乱れ、新しい宗教指導者が求められていた。お話しは、四人の登場人物の語りで、時間の流れに沿った、オムニバス風に綴られる。
 比叡山の山中、天台宗を興こす最澄の修業を、阻もうとする盗賊たちがいた。その盗賊の群れに、やがて真魚という、呪術の才能を持った若者が加わる。しかし、術に溺れた真魚は、ある時、死者からもう一人の自分を生み出す。それは、自身とことごとく対立する存在となり、彼に付きまとった。若者は、後に空海と称する……。
 物語は、二人の空海をめぐって展開する。けれど、全体としては、盗賊の配下やその頭目などが大きく描かれており、呪術のありえた時代の“生きざま”に重点が置かれているといえる。夢枕獏らにもあったが、比叡山や高野山が生まれる前後の時代は、日本史の中で、もっとも中世を感じさせる時代だ。空海という人物を得て、仏教の神秘性が高まった。本書では、スプラッタなし、エロ少しの、正統派伝奇小説で、空海を描いた。派手さはないが、堅実なまとまりといえる。ただ、この題名と表紙では、読者に誤解をあたえるのではないか。