中井紀夫
漂着神都市(徳間書店)
『能なしワニ』のシリーズでおなじみ、中井紀夫の最新長篇である。われわれの生活空間と、ほんの少し違った異次元を描くのが、この著者の本領である。今回は、シリーズにはならないらしいけれど、独特のユーモアの込められた、中井流『ストーカー』(ストルガツキー、またはタルコフスキー)が描かれている。
ある日、新宿に着陸した異星人、だが、一切の接触は行なわれず、異星の産物と思われる奇妙な機械たちが、東京の街に溢れはじめる。機械は、街を異形の物に作りかえていくのである。東京は“ゾーン”と化し、そこには新たな商売、異星人建造物解体屋があらわれる……。
こう書くと、まったく『ストーカー』のパロディみたいだけれど、前半はそんな調子だ。ただ、登場人物たちの雰囲気から感じとれる以上に、シリアスな設定が意図されている。異星の建造物、神殿への侵入以降は、実にスリリングに流れていく。コンクリート、鉄骨、機械部品などなど、あらゆるジャンクで組み上げられた、高層ビルを睥睨する膨大なジャングル。それら、東京の中の異界描写が圧巻。本来ならば、異世界のありさまこそが、著者の描きたかった対象なのだと感じさせる。全体の分量に比べて、短かすぎる点が惜しい。ただ、舞台の面白さと対照的に、攫われた女の子を救出に向うという、主人公たちの行動は、不自然に思える。いま一つ、命を掛ける動機に納得ができないからだ。ヒロインの女の子が幼すぎて、共感できないせいかもしれないが。
ところで、本書の結末は、軽いハッピーエンドと思って読み進んだ読者(評者もそうだった)には、意外に映るかもしれない。
イアン・ワトスン&
マイクル・ビショップ
デクストロU接触(東京創元社)
ワトスンとビショップが合作して、しかもファースト・コンタクトテーマとなると、お話も、だいたい想像がつく。
デクストロ第二惑星、二重星の一方をめぐるこの星で、人類は初の異星人と遭遇する。彼らは人間たちに、自分たちの秘密を一切教えようとしない。何の成果も得られないまま、やがて、二重星の一方がノヴァ化することが知らされる。けれども、探査チームの中に、精神を蝕まれるほど、異星人に魅せられた者がいた……。
惑星は、オノゴロと名付けられる。もちろん、日本神話のオノゴロ島から採られたものだ。主人公は日本女性であり、ワトスンの日本趣味と理解不能のエイリアンとの対比が、なかなか“不気味な”効果を上げている。この点は、日本の読者にとってではあるが。そもそも、ファースト・コンタクトという言葉自体、単純に接触が行なわれ、異星人との戦争云々、きわめて地球的な反応に終始する作品を指すものだった。一方、出会いがありながら、(物理的には)ほとんど何の意味もなく、すれ違いに終るというような設定は、レムやストルガツキーなどが好んで用いた。さすがに、この二人の作品では、異星人の謎が、まったく明かされないということはなく、秘密の一端は解かれるのである。しかし、それは人類の成果とはならず、一個人の精神を、ずたずたに切裂く宇宙的な“超”体験なのである。
ビショップ流の異星人は、マニア好みの韜晦さを持っている。だが、逆の意味でパターン化しすぎており、手放しで褒めにくい。ワトスンの持味が加味されたとはいえ、残念ながら、代表作である『樹海伝説』には及ばないだろう。
魔法(とみなされる超能力)と、エルフやドワーフら、妖精たちが日常的に存在し、中世そのままの文明段階にある惑星グラマリエに、社会を民主主義に導く役割を帯びて、一人のDDT(地方自治体民主裁定委員会)のエージェントとロボット馬が降り立つ。そこでは、若い女王と貴族、民衆間の三つどもえの争いが生じており、しかもその影で正体不明の扇動者が活動していた……。
クリストファ・スタシェフは、以前にSFマガジンで紹介があったぐらいで、おそらく今回初の翻訳だろう。なんとか賞の候補に挙るような作家ではないけれど、まずまずの評判だった。何十人かいる、未紹介中堅作家の一人。本書の設定や展開は、すでに翻訳が進んでいるアンソニイの魔法の国ザンスシリーズと同様、おとぎ話の中世が現実化した、異世界ものである。ユーモアを加味したところまで、感触もよく似ている。重いファンタジイに比べると、こういった設定の方が、シリーズとして継続しやすいのかもしれない。また、主人公の使命は、共産主義勢力から世界を守るため、などと生臭くなっているけれど、深い政治的な意図があるとは思えない。要は軽く楽しめる作品だろう。自作まで、発表年代に差があるので、これからシリーズが進むに従って、トーンがどう変って行くのかが興味深い。
本書は、全七作あるシリーズの一部だ。最初に書かれて(翻訳版では@A併せたもの)以来、長い間続刊がなかった。それが、ファンタジイブームに乗ってか、ここ四、五年の間、毎年のように新作が書かれている。
ところで、本書は総ルビ、お子様向きに作ってありますが、内容は必ずしもそうではありません。
田中芳樹
タイタニア1(疾風篇)
(徳間書店)
たとえ人類が銀河にあまねく広がったとしても、その政治の権謀術数は一千年や二千年では変りようがない……。そういった考え方と、交通手段、通信手段の解決法が提示されているなら、スペースオペラの安っぽい設定にも利用価値がでてくる。
『銀河英雄伝説』以来の、田中芳樹“大説”の新シリーズである。個人ではなく歴史を描く、“大説”と厳密にいえるかどうかはともかく、歴史を形作った主役(英雄)を中心に書かれたものだ。この点、時代の端役である一個人を追う、眉村卓の『不定期エスパー』と対照的で面白い。両者とも戦略レベルの駆引や軍隊組織の力学描写を得意としており、アメリカのミリタリーSFにもない切り口の新しさがある。
前回のシリーズは、帝国対自由惑星同盟という図式の中で、帝国指揮官ラインハルトと同盟側のヤンとの戦いを描いた。今回は、よく似てはいるが、やや異なった未来史を舞台に、帝国内で皇帝以上の権勢を欲しいままにするタイタニアの一族と、それに対抗する(うだつの上がらぬ)反乱軍提督ファン・ヒューリックらの駆引を主題としている。帝国側がやたらかっこよくて、反乱側はどこか抜けたところがあるというのも、前作のスタイルを踏襲している。そうである分、一体どこに新奇さを付加えるかが、問題だろう。確かに、前作の宮廷描写など、あまりに様式化されすぎていた部分は、より複雑な構造(タイタニア一族と貴族たち、一族内の当主と公爵たち、そしてまた公爵同士の葛藤などなど)に改められているようだ。けれど第一作では、まだ本当の新しさまでは見えない。『銀英伝』以来の、面白さは持続されている。次巻に以降に、新展開を期待したい。
昭和が葬送された年の終りに、本書が刊行されたことには、やはりそれなりの隠喩を認めるべきである(と、考えた方が面白い)。
名高い論客である巽孝之の、最初の著作(共著を除く)にあたる。内容は評論ではなく、きわめてジャーナリスティックな現場報告(評伝)である。サイバーパンクが形をなすのは、1981年頃、以来80年代はサイバーパンクとともに推移した。著者巽孝之は、その時代の半ばにアメリカに留学し、本書に収められた主役たちと直接出会いながら、ただなかからこの実況中継を(文書で出版される以前にも)送り続けてくれた。現場の雰囲気を、これだけ体系的にまとめた例は、他にない。サイバーパンク作家、編集者や、そもそもの起源など、主なところは、本書を読めばすべて分る仕組になっている。資料類も完備している。掘り下げた分析がやや不足している感もあるけれど、内容の性格上やむを得ない。その点については、別に書かれる機会があるはずだ。
87年以降、サイバーパンクは、それまで無関係だった日本でも、あらゆるものを巻き込むダイナミズムとともに姿をみせる。そして、拡散を経て、早くも“流行”の幕を引こうとしている。日本で、ムーヴメントを支えたのは作家ではない。SFをとりまく状況そのものである。これは、著者が冒頭で引いたギブソンの一節をなぞるような、奇妙な現実である。その中で、著者の果した役割は、実に大きなものであったといえるだろう。誰かがいっていたけれど、巽孝之にはアカデミストとしての才能だけでなく、ジャーナリストとしての視点、直感が充分ある。あとがきに書かれた、日本に於ける現場報告『サイバーパンク・ジャパン』にも期待したい。
8年前(1981)に、現代サイバーパンク風社会を予見していた書。といっても、アメリカでは公衆(電話)回線を介してコンピュータをつなぐ、いわゆるネットワーク網は、昔から完備されていた。公衆回線だから誰でもアクセスできる。したがって、ハッカーの起源も同じぐらい古い。しかし、コンピュータとの接続は、単純な図形や文字を介してしか行なわれない。その世界を、目に見えるもの、実体験できるものとして描写すると、文字通り、魔法の世界が現われるのではないか──そんな連想から本書は生れた。ごく短い枚数で、一人のハッカーが政府の要請を受け、ネットワークの魔法世界から、現実の世界を支配しようとする、謎の〈郵便屋〉と呼ばれる存在と闘い、正体を暴くまでを描いている。もともと中篇程度の長さである。遊びも少なく、展開はハイペースで、一気に読めてしまう。
現在のコンピュータは、何をどう動かすかという規則、いわゆる“手続”で組み立てられた機械だ。自然、ゲームと同じ感覚で駆引を行なうことができる。手続の裏をかき、制作者の予期しない使われ方をする。また、そこに実体のない“知性”を錯覚させることもできる。本書と、従来の類似作品との相違は、現状(とその延長)のコンピュータ及びネットワークの特徴を、的確にとらえた点にある。近い将来、確実に古びてしまうものだけれど、善し悪しは別問題として、現状認識はサイバーパンクより正確である。
著者は、既に多くの邦訳のあるジョーン・D・ヴィンジのもと夫。兼業のせいか、作品も少なく、長年マイナーな存在だった。時流にのり、一躍注目を集めた本書が、出世作となった。
草上仁は、2年前の8月に処女短篇集『こちらITT』を出して以来、1年後の『くらげの日』、それから半年間の書き下ろしを含む2冊と、(ほぼ1ヵ月に短篇一本という)着実なペースで発表を続けている。以来、評判は高く、褒める人はいても、批判されることはまずない。まさに、兼業作家の理想である。
年齢的にはずっと若いけれど、梶尾真治と作品の印象が似ている。懐かしさを感じさせる作風とよくいわれる。アイデアを中心に据えた、いわば、SFファンの原点に立つ書き手だからである。ただ、過去へのノスタルジイだけでは、作品は成立しない。飽きの来ない、新鮮さも必要だ。著者は、書きようで、アイデアを生かせる方法が、まだいくらでも残っていることを実践しているのである。
短篇という形式にこだわる作家は、日本でも少なくなりつつある。著者のような作品は、一部のSF専門誌以外では、ほとんど読むことができない。量産型の書き下ろしペーパーバック(文庫)のスタイルが、主流になろうとしているからだ。手間のかかる短篇は、専業作家にとって採算が合わない。英米も含めて、今や懐かしいというだけでなく、貴重な存在でもある。
本書の集録作品は、比較的長めの五短篇。中では、まったく予想外の惑星に送られ、販売に苦しむセールスマンを描いた『クーラー売ります』、釣好きの船長が出会う意外な異星人『太公望』などがベスト。“意外なアイデア”というのはさすがに少ないが、結末が分っても、語り口で読めてしまう。もともと派手さはないものの、本書では、さらに着実さと旨さが加わっている。一読、やはり、安心してしまうのである。
本書をもって、ブラス城年代記三部作は終る。創元推理文庫で、ホークムーンの最初のシリーズ“ルーンの杖秘録”の刊行がはじまって以来、14年かかったことになる。まだ、ムアコックのシリーズ全部が紹介されたわけではないけれど、ヒロイック・ファンタジイ(もはや死語に近いタームですね)関連の作品は、コルム、エルリック、エレコーゼ、ホークムーンと、主なところは翻訳が進んだ。本書はこれらシリーズの集大成、ヒーロー大集合の完結篇として書かれたものである。──といっても、この後、外伝(のような続篇)がいくつか出てはいるのだが。
前巻で、最愛の妻イッセルダをとりもどしたホークムーンは、さらに二人の子供たちをも呼び戻すべく旅立つ。だが、その途上で、無数の次元を揺るがし、宇宙を死滅させようとする巨大な敵と闘うべく、多くの戦士とともに召集される。その中には、彼の分身であるエルリックら、四人の《永遠の戦士》たちがいた……。
敵はさまざま、戦士の運命を弄ぶ神々もさまざまで、一定の二項対立ではないけれど、お馴染みといえば、あまりにお馴染みの設定である。しかし、この究極、永遠のワンパターン、果てしのない繰返しこそが、本シリーズの価値なのである。主人公の虚無感や悩みすら、読み手が安心できる不変の証となる。正直な話、20冊以上になる同音異曲(しかも同じような長さ)の長篇を読み続けると、飽きてくる時期もあるのだが、不思議なことに、また読みたくなるようになる。悲劇で終る物語でありながら、死が死でなく、運命がいくつもあり得るという設定には、意外に、天真爛漫な冒険ものと共通する、楽天性があるのではないか。
スティーヴ・ラスニック・テム
深き霧の底より(東京創元社)
いわゆるひとつの田舎ホラー的設定(と書いてある)作品。
陰慘で暗い過去をもつ主人公が、呪われた地である故郷に帰ってくる。そして、当然のごとく巻き起こる殺人、あるいは超自然的現象の数々。訳者解説にある「いわゆるひとつの……」にはこんな意味が込められているのだろう。別にアメリカ作家に限らず、横溝正史だって同じような作品を書いている。いわば常道の設定なのだが、かつて栄えた炭坑街で、豊かだった自然は露天堀で見る影もない、という描写は新鮮だし、主人公の考古学者が、泥流に呑みこまれた両親の家を発掘するところなど、なかなか類例のない不気味さである。10年前の惨劇が甦るシーンは、映画『ソラリス』さえ連想させる。ただ、残念なことに、結末に向って収斂していく恐怖感が、いまひとつ希薄である。主人公の動機や、田舎町の謎が明らかにされず、あいまいに終るのも、ちょっと印象を散漫にしている。長篇を貫く物語の緊密さに、いくらか問題があるのだろう。
作者のテムは、これまでSF雑誌やホラー系アンソロジィに、短篇を大量に掲載してきた作家。本書が昨年出たばかりの処女長篇である。めずらしく短篇志向で、キャリアも長く、しかも書き下ろし専門でなかった分、息の長い活躍が可能と思われる。
創元ノヴェルズの一冊。冒険小説とモダンホラーを中心とした新文庫で、体裁が一新されている。創元の場合“ホラー”というより古典的な“怪奇”か、あるいは“ファンタジィ”が多かっただけに、自由度が増したことになる。各種ホラーが、いろいろとりまぜて刊行されるらしいので、今後のラインアップに大いに期待したい。
荒俣宏
地球暗黒記(東京創元社)
ハワイにまつわる、少女の冒険譚3部作。
13年前、ハワイで失踪した母を捜そうと、高校を休学した主人公は、訪れた旅行社に、「ナナ=ヌウ」という奇妙なツアーを紹介される。──期間、費用ともに無制限、現地職員の全面的なバックアップがある。そして、彼女を待っていたのは、陽光があふれ、白砂と椰子がそよぐハワイではなく、人工の楽園の裏側に潜む暗黒面だった。徳川家康の命に端を発し、以来、南太平洋一帯に根付く謎のネットワーク森岡商会。一方、アメリカ政府の密命を帯びて、それに対抗する北米駅馬車組合。しかも、背後には、さらに巨大な存在があった……。
伝奇小説ではあるのだが、ハワイを舞台にしたせいか、血の妄執云々の暗さはない。観光客であふれかえるハワイは、昔からのハワイとは、ほとんどつながりのない虚構の楽園である。裏側には、滅んでいったハワイ王朝の歴史や、移民たちの悲哀がある──熱帯の暗黒面とは、そういう意味である。そのハワイで、過去と未来をつなぐ秘密をめぐり、少女の冒険旅行が続くのだ。
高校生を主人公としているが、ジュヴナイル風には書かれていない。1巻目で書かれた設定から、第3巻目にいたる展開には、かなりの意外性がある。ただ、売文句“熱帯伝奇小説”から勝手に連想した、幻想的な物語にはならなかった。正直なところ、森岡商会と北米駅馬車組合という奇妙な組合せを、もう少しみたかったように思う。これ二つだけでも、すべてが解明された訳ではないからだ。3巻を費やして、まだ短い。ハワイの暗黒面、南洋の秘密について、語り残されたことが多すぎる。続篇に含みを残した終り方である。