レンズマン外伝である。主人公が(竜の姿をした)ウォーゼルだから、ドラゴン・レンズマンなのである。他にも、トレゴンシーやナドレックを主人公にしたものがある。舞台の時代背景は、シリーズでいう『グレー・レンズマン』と『レンズの子ら』の間に属する。
博物館惑星で機械の反乱がおこる。調査に赴いたウォーゼルは、知性をもつ機械と出会う。さらに、若いレンズマンたちを襲うボスコーンの残党と、ブラック・レンズマンの存在! 事態は風雲急を告げる。
いま現在、レンズマンをどれだけの人が評価しているのか、よく分らない。昨年のSFマガジンオールタイム・ベストでも、まだ30位なかばに、かろうじて残ってはいるものの、10年前のSF宝石ベストでは、15位で健闘していた。(ちなみにベスト10はほとんど変っていない)。さきざき忘れられていく傾向にあるようだ。『SFガイドマップ』には、創造力や文章力の点で、もはや読むにたえないと書かれていて、確かにそのとおりなのだ。しかし、疑似科学用語が入り乱れ、人物描写がほとんどない”壮大な”ドラマの伝統が、SFから失われてしまったわけではない。生命進化や宇宙人類というテーマをとりあげるとき、小松左京の中にも、スターリングの中にも、形をかえて残されていることがわかる。原点としての価値がある。
作者カイルは、E・E・スミスの熱烈なファンであり、かつSF第一世代(1940年以前)のファンでもある。それだけに、クラシックな雰囲気がよく出ている。いわば、懐かしのリバイバル。ただ、30年代から50年にかけての、現代SFとはまったく基準の異なる、”ドク”スミスの奔放さは、(善し悪しは別にして)あまり感じられない。
ブルース・スターリング
蝉の女王(早川書房)
作者スターリングの短篇は、1983年4月号に「巣」が掲載されて以来、SFマガジンをはじめ、日本版オムニなどで紹介されてきた。今回の日本オリジナル短篇集には、工作者シリーズに属する、既訳4篇とインターゾーンに掲載されたコンデンスト・ノヴェル(バラードの同種の作品に拠ったもの)一篇がまとめられている。ギブスンの序文や、著者自身による詳しい解説つき。翻訳の経過からも、スターリングは、事実上のデビュー作から、ほとんどリアルタイムにフォローされてきた。早くから、注目を集めていた。これについては、本書の編訳者である、小川隆氏の功績が大きい。
出世作「巣」は、知性をもたない共生体の棲む小惑星で、異様な生命のありかたを知る工作者が描かれたもの。『スキズマトリックス』に至る、生態的変容を遂げた社会が暗示されている。以降、自らの体を何の躊躇もなく変えてしまう、工作者と機械主義者との(道徳感とは無関係な)葛藤が、このシリーズを形造っている。
ベストは、やはり「巣」。表題作「蝉の女王」は、やや混沌としている。コンデンスト・ノヴェル「<機械主義者/工作者>の時代」は、バラードを茶化したようにも読めてしまう。それはともかく、全体的に、長篇『スキズマトリックス』より、はるかにわかりやすい。スターリングを読むなら、まず本書からだろう。
ただ、著者が解説で書く、現代科学(技術)とニューウェーヴとの接点に、サイバーパンクの発端があったのは、もはやこのムーヴメントが、生態的変容を遂げる前の物語である。そもそも、そういう位置付けで読める作家がいないのだから。
ジェイムズ・P・ホーガン
終局のエニグマ(東京創元社)
ホーガンの”政治謀略小説”。
ロシア革命百周年、ソ連は月軌道上に巨大な宇宙島「ワレンティナ・テレシコワ」を建設する。それは、まさにソ連共産主義革命の勝利を意味する、平和記念碑となるべきものだった。しかし、西側陣営は、その存在に、大きな疑惑を感じていた。崩壊寸前のソ連が、多大な犠牲を払ってまで、非武装の宇宙島を築くはずがないからだ。どこかに邪悪な秘密がある。謎(エニグマ)を暴くため、アメリカから、男女二人のエージェントが派遣されるのだが……。
ホーガンの新機軸として、登場人物たちが、やたらに政治的主張を論じ合っている。主張は、(政治だろうが、なんだろうが)いつものホーガンと変りなく、単純明快で分りやすい。ただ、あまりにプリミティヴすぎるせいで、主人公や主要人物の個性を薄める結果となった。作者が軍事情報に、特に詳しいとも思えず、スパイ謀略、敵との駆引うんぬんだけでは、物語が維持できないせいもあるだろう。とはいえ、本書は、やはりSFなのである。それ以外の読み方をして、面白くなる作品ではないのだ。謎解きも、SF的にしなければならない。
なぜ、推定された場所に武器が隠されていないのか、なぜ、エージェントたちは厳しく監視されないのか、なぜ、あるはずのないコリオリの力が働くのか……。本書では、謎がどんどん盛り上がっていって、終盤どんでん返しが2回ほど繰返される。
──この見せ場は、なかなかすごいトリックなのですが、まあしかし、そんなあほな、なんでそんなことせなあかんのや、と思ってしまいますねぇ。SFだから、しかたがないか。
夢枕獏
月の王(徳間書店)
2年前に『妖樹・あやかしのき』という長篇が出ていて、本書は、その前篇にあたる。順序が逆転したわけだ。本書はもっとも初期の頃(1981年)から書かれてきた4つの短篇に、今回あらたな一篇(表題作)を加えた、”印度怪異譚”作品集である。
本書の主人公アーモンは、「闇狩り師」九十九乱蔵の原型であるという。しかし、主人公が大活躍する冒険物語ではない。”血”にまみれてはいても、暴力的ではなく、どこか哀しい登場人物たちばかりがあらわれる。彼らの方が、主役に見える。民話風と感じるのは、どれもがシンプルで、さらりと書かれているせいだろう。ただ、そこがインドという舞台の不思議さで、和風民話のように暗く沈みこむ怪談とはならない。原色に満ちた、あかるい亜熱帯の国だからである。けれど、それだけ光に満ちていても、歴史と社会制度の積重なりがじゃまして、世界の全貌を見せてくれようとはしないのだ。その隙間に、魔術や、人跡未踏の地や、近代都市や、古代インドが(物語の要素として)隠れているのである。
著者は、処女長篇『幻獣変化』でも、インドを書いた。そこでは、雪冠樹(ヒウナージャン)という巨大な木の生える、異界のインドが描かれていた。インドですぐに連想するのは、ブッダ、リグ・ヴェーダ、ラーマヤナ、ヒンドゥーの神々などなどだが、夢枕獏は、ありふれた同じ言葉から、まったく違った物語を創造する。著者には、いつか、人であふれたインドの雑踏も、舞台にして書いて欲しいと思う。きっと、奇妙なエネルギーに満ちた異質な世界が、小説というフィルターを経過し、さらに大きく変貌して読めるに違いないからだ。
シャーリン・マクラム
暗黒太陽の浮気娘(早川書房)
本誌が出るころには、名古屋の日本SF大会も、無事に(かどうか知らないけど)おわっているはずだ。ただ、全国大会だからといって、参加者はせいぜい二千人規模、それほど多くはない。たいていの人は、名前を聞いたことはあっても、参加経験はないだろう。そこで、実体を知りたいなと思ったあなたに、まず、本書をお薦めしたいのである!
えー、本書はミステリでありながら、物語のなかば過ぎまで、殺人事件は発生しない。主人公は、大会初参加の新人SF作家。その主人公が、ロールプレイング・ゲームで犯人を追いつめていくシーンは、なかなかの迫力。だがしかし、ミステリだと思わない方がたのしめる。本当の面白さは、舞台となったアメリカの地方大会(全国大会ではなく、ローカル・コンベンション)の描写にある。
本書に登場するSFおたく(ファン)は、でぶで、常識がなくて、自己顕示慾が強いくせに、人間関係は苦手で、よーするに人間の屑ばかり。大会スタッフは、そんな参加者や、無理難題を要求するゲストを相手に、けなげに奮闘する。けれど、彼らにしたところで大会運営以外に能がない、落ちこぼれなのである。どーしよーもない屑だ。それでも、また来年大会をやろうとするのだから、ばかやろう、としか言いようがない。(ちなみに評者は、大会役員経験3回です。大会運営というのは、習慣性麻薬なのです)。
最近は日本でも、(温泉地ではあるけれど)ホテルを借切った形式がとられ、アメリカの大会に似てきた。でもね、密室の多いホテルだと管理が大変なのだ。殺人事件だって、おこりうる。人畜無害の(と思われていた)おたく族が、幼女誘拐殺人する時代ですからねぇ。
筒井康隆
夢探偵(光文社)
アンソロジイが流行っている。筑摩に対抗してか、光文社もアンソロジイの叢書をだした。本書は、その一冊。
”夢”に関するアンソロジイである。以前に『いかにして眠るか』(1980)というのがあったが、『夢探偵』はその続篇。眠ってしまったあとについて、まとめられているわけだ。夢がいかに作品にとって重大かは、編者自身が、本書の中で述べている。その夢の重要性を、敷衍するかたちで、編まれている。全部で17篇、小説、エッセイのほか、夢日記が多い。最後には夢テーマのショートショートと、編者による夢判断(の脚注)までついている。
本書の表題には、夢の真相を探り出し、本質をつきとめるという意味がある。各作品ごとの編者解説も、そういう観点から述べられている。ふつうのアンソロジイでは、明快な説明(選ばれた理由)は、あまり書かれない。著者紹介程度である。しかし、一冊の本それ自体で一つの作品なのだから、意志を鮮明に出す意味もあるだろう。
日本でアンソロジイというと、種村季弘や澁澤龍彦など、幻想文学系で名のある人が思い浮かぶ。とはいえ、それ以外となると、レベルの差が歴然とある。名前だけを貸しているのでは、と疑われるものも多い。けれど、筒井康隆は、アンソロジストとして、『異形の白昼』以来、すでに20年のキャリアをもつ。日本で唯一だった(徳間書店版)年刊SF傑作選を含め、編纂した作品数も多い。アンソロジイの面白さは、異なる意図で書かれたものが、一つにされることで、まったく新しい別の作品に生れ変る点である。本書もまた、筒井康隆の長篇作品として、再生されている。
ジョナサン・キャロル
月の骨(東京創元社)
”ホラー”というレッテルは、この作者に、ちょっと似合わないようだ。本書では、もうどこにも、ホラーとは書かれていない。(驚愕のダーク・ファンタジィ、なんて形容されていますがね)。
前作(処女長篇)は、童話作家を追跡するうちに、ファンタジィの世界に迷いこんでいくお話しだった。今回も、主人公の夢の中に別の世界”ロンデュア”が現われ、そこを夢の中で探索していくありさまと、日常生活とが交錯していく。五つの骨(月の骨)を探索する旅には、自分にはいないはずの息子が同行していた……。
本書に欠点は多い。たとえば、夢世界の描写が長すぎる。最後の、現実との接点が現われるシーンに、充分な伏線が張られていたとはいいがたい。主人公のみじめな人生と、幸せいっぱいの結婚生活。そんなある日、階下の少年が両親を斧で殺す──これだけ“不吉な”前兆があふれているのなら、結末は、もっと陰惨になるのがふつうだろう。しかしそれでも、本書は新鮮な印象を残す。作者の興味は、世間一般のホラーにはないのだ。処女作から一貫して、ホラー風の事件と、童話の世界を結びつけ、しかも重点をファンタジィの方に置く、そんなところに新しさがある。前作は、一部マニアの反響を呼んだ。童話の古本を捜す始まりから、最後に幻想世界が現実化するところなど、予想をこえた展開が高く評価された。ただし、問題となった説得力(物語の本当らしさ)については、本書でも、いま一つ、改善の余地がありそうだ。そんなふうに感じるのは、たぶん、結婚生活などの詳細な、思い入れにあふれた描写が、キング以来の“生活の中に忍び寄る恐怖”というパターンに、はまりすぎるためだろう。
夏のあいだに出た本を調べてみると、やはり多いのはホラーである。夏だけの現象ではないのだろうが、翻訳点数ではホラー、ファンタジィ、SFの順番で、最近の傾向をそのまま反映している。その掉尾をかざるのが、本命キングの『ペット・セマタリー』。(映画では
Semetary だったけれど、原作は、子供の綴りまちがいで Sematary)。
ある日、主人公たち一家が、都会から引越してくる。新しい家の近くには、昔からペットたちの墓場があった。しかし墓場の奥、深い森の中に、インディアンたちの呪われた地があった。やがて、その地は、主人公に異様な欲望を生みつける……。
キングほど創造力が貧困な作家は、いないのではないかと思ったことがある。もちろん、小説を書く上での創造力ではなく、非日常的、SF的なアイデアについてだが。本書もまた、「猿の手」という、きわめて類型的なアイデアを、予想通りに展開しただけのお話しである。けれど、ジェイコブズの元祖「猿の手」では書かれなかった、家族の死や家族の子供への感情が、驚異的なまでに凝集されている。とにかく重苦しい。考えてみれば、身近な人物の死は、旧来の、特に日本の怪奇ものの基本テーマでもあった。暗く、じめついている。逆に、そうであるからこそ、ふつうのホラーでしかない結末は、中盤の主人公の苦悩にくらべて、バランスを欠いている。当然、ハッピーエンドにはならない。しかも、なぜこうなったのか、納得できない終り方となっている。このあたり、結末の超自然現象にむかって、もりあがっていく『シャイニング』と、対極をなしているようだ。キングの他の作品には見られない、“いやな”読後感を残す。
ウォルター・ジョン・ウィリアムス
進化の使者(早川書房)
ウォルター・ジョン・ウィリアムズのSF処女長篇。これまでの2長篇にくらべて、いちばんオーソドックスにまとめられている。なんというか、昔なつかしい設定ですね。アンダースンが書きそうだ。
人類が銀河にあまねく広がり、やがて大異変の後、相互のコミュニケーションと高度な科学技術を失う。しかし、長い年月のあいだに、植民惑星の人類は、ふたたび文明を再興し甦る。舞台となる惑星エキドナは、ちょうど中世を迎えていた。そこに、別の植民惑星から使者が訪れる……。文明と文明との出会い。1つはまだ封建時代であり、もう1つは宇宙船を持つまでに至っている。2つの文明のあいだには、圧倒的な落差がある。そこで何が起るのか。
物語は、主に3つの視点から描かれる。宇宙からの大使フィオナ、都市国家(ベネチア風の国家)の領主ネシアス、戦士の長テゲスツの計3つ。ただし、作者の興味は、ネシアスとテゲスツの権謀術数にあり、惑星規模の文明論議には、あまり言及されない。実のところ、この点が、よくも悪しくも本書の内容を律してしまっている。物語の事実上の主題は、異民族である傭兵戦士が、豪商である領主を、いかに(合法的に)出し抜くか、である。さらに、異星とのかけひきが充分に絡めば、立派なSFになっていただろう。
最初に紹介された『ナイト・ムーヴス』では、本筋と無関係の話が、3分の1を占めてしまうという、バランスの悪さがあった。本書も、見方によれば、全体が関係のないお話しだったわけである。しかし“関係のない”お話しのおもしろさはまずまず。時代のトレンドと無関係に、素直に読める点は評価できる。
ジェントリー・リー&
アーサー・C・クラーク
星々の揺籃(早川書房)
その昔、マーティン・ケイディンの小説をはじめて読んだとき、同じようなSF的設定を扱いながら、どうしてこんなに印象がちがうのか、不思議に思ったことがあった。えんえんと続く登場人物の経歴、本筋と関係のない日常描写や、人物間の葛藤 要するに、ケーディンは、アメリカ流の大衆小説のパターンを、そのまま踏襲していただけなのである。一方のSFは、そんなスタイルに(ほとんど)無頓着だった。それでも小説として成立ったのだから、やはりSFは偉大なのだ。中でも、クラークは代表格だった という期待で、本書を読むと、かなりの衝撃を受ける。まず警告。本書は、まったくクラークらしくはありません。末尾にある、キャスティングを見ても、だいたい推測できるように、基本的に共著者リーの作品である。全盛期のクラークと異なるという以上に、これは“アメリカ流の大衆小説”として書かれているからだ。
舞台はフロリダ。行方不明になった軍のミサイルを追う、一人の女性ジャーナリストが、調査の途中、海底に潜む奇妙な構造物を発見する。それは外宇宙から飛来した宇宙船だった。しかし、彼女の回りには、海底の財宝を狙う一味や海軍の調査チームなど、さまざまなグループが、調査の妨害をしようと待ち構えていた。はたして宇宙船の目的は何か?
ただ、本書の主題は、異星人と人類とのファースト・コンタクトにはない。海底の宝物を奪い合う人間模様なのである。これが宇宙船でなくスペインの沈没船でも、完全に置き換えが可能である。むしろそうした方が、おもしろくなったかもしれない。特に気になるのが結末。いくらキャラクター小説でも、こんな終わり方をしたのでは……。