ルーディ・ラッカー
ソフトウェア(早川書房)
第1回デイック記念賞受賞作。
これまで紹介された同賞の作品(パワーズや、ブレイロックら)は、作者がデイックの信奉者であるかないかと無関係に、あまりデイック的ではなかった。まあ、キャンベル賞がキャンベルの後継者に与えられるわけではないのと同じで、そのこと自体どうということはないのだが。
しかし、本書はデイックを感じさせるのだ。
かつて、ロボットたちに自意識を与えた老科学者が、ある日、そのロボットたちから若返り手術の申し出を受ける。老人は、よろこんで提案を受入れるが、目的地のロボットの世界では、覇権をめぐっての激しい抗争が巻き起こっていた……。
本書の難点は、老人が主人公といわれなければ、若いのか年をとってるのかも分らない人間描写とか、ロボットの論理や世界構築で、科学者の発想なのかと思えるほど杜撰なところがあるとか、まあいろいろ挙げられる。どれも、ほめられたことではない。だが、ディックもそうだったわけである。こういったいい加減さは、作者が意識してひねりすぎた結果、読者に理解できないしろものになってしまったともいえる。最初から、読者と了解範囲がちがっていたともいえる。アマチュア的(要はへたくそ)なのかもしれない。とはいえ、マッドと呼ばれるためには、読者の日常的な認識範囲を、こえる必要もあるだろう。精神というものがソフトウェアであり、したがって何度でも複製可能である、などというアイデアは、本気で信じるとマッドそのものである。
なお、本書の続篇『ウェットウエア』も、本誌が出る頃には、出版されているはず。
本書のSFの程度は、村上春樹(本書の訳者でもある)がSFであるかどうかと、同等ともいえるし、いえない部分もある。
1945年から1995年の“核”の時代を描いた作品である。核の恐怖が主人公の人生に影響を及ぼす。主人公は、少年時代に、卓球台の下にシェルターをつくる。いまにも核爆弾が落ちてくるという、怖さから逃れるためだった。その恐怖は、やがて大学に入るころに、また彼の中に甦る。そして、召集令状を受けた後、兵役厭忌者として、テロリストの群に身を投じるのだ……。物語の背景には、60年代という時代が流れてる。精神を狂わせる核戦争の危機感、やがてそれはベトナムの影へと直結していく。(訳者による、詳細な60年代事項の訳註付)。
アメリカ現代(青春?)小説には、たとえば、アーヴィング(『ガープの世界』)、とかキンセラ(『シューレス・ジョー』)、ヘルプリン(『ウィンターズ・テイル』)とかが含まれている。どの作家にも、ファンタジイやSFの(原始的な)手法が使われている。意識的かどうかはわからない。しかし、そういった切り口は、いまの時代では、もはや不偏的なものなのだろう。例えば、本書が未来(1995年)で終わっていても、小説としては、どこにも不自然さがない。
村上春樹流の、魅力的な人物描写はないけれど、全編ユーモアで満ちている。一見軽く、しかし、かなりな重量感をもつ作品である。結論からいうと、SFとはとても言えない作品だが、広範囲な時代背景で描かれた、ベトナムに囚われないベトナムものである。ティム・オブライエンはベトナム帰還兵であり、これまでの題材は、ベトナムと深く関わりあっている。
小林信彦には『夢の砦』という作品がある。それは、本書と同じ時代を描いた作品である。東京オリンピックが開かれる前、雑然とした、しかし、今よりはるかに自由な東京が舞台である。著者にとって、もっとも思い入れの深い設定なのだろう。
『イエスタデイ・ワンス・モア』は、最近のティーンズ文庫と、同程度の長さで書かれている。主人公も高校生、彼は、ふとした偶然で、30年前の過去にまぎれこんでしまう。そこで味わう、夢や恋、希望などが中篇小説なみの長さにこめられている。ただ、“今のこと”だけが書かれる青春小説とは、形式だけしか似ていない。そもそも、通常のSFとも似ていないのである。
たとえば、ジャック・フィニイ『ふりだしに戻る』、『マリオンの壁』や、広瀬正『マイナス・ゼロ』などは、過去へのあこがれという点で、ふつうのタイムスリップものとは、大きく印象が異なっている。SFの過去に対する興味は、歴史年表を見るときのように、傍観者的である。その時代に同化しようとか、社会を肯定的にあつかうこと自体がめずらしいのだ。本書では、現代の高校生に、価値観の違いをきわだたせる役割が与えられている。けれど、彼は作者の分身のように、時代に融けこんでしまい、対立しない。単純な過去へのあこがれでは、現代に対する批判や、逃避程度にしかならない。だが、さらに純化することで、異世界創造となりえる。わずか一年前でも、過去には決してもどれない。それはそれで、異質の別世界なのである。
短いぶん、60年代の風景、風俗などが、あまり具体的に伝わってはこない。しかし、それは本書の目的ではないのだから、しかたがないだろう。
『鼻行類』は、1987年に翻訳されて話題になった。原書は1961年にドイツで出版され、その当時から反響を呼んでいる。SFAのレビューでは、(なぜか)とりあげられていないので、簡単に同書を紹介すると――太平洋のハイアイアイ群島で発見された、新しい動物目、鼻行類(鼻で歩くことから)の生態と外観(ペン画)の図鑑、ということになる。進化のシミュレーションという点で、ディクソンの『アフター・マン』などと同じ、架空博物図鑑だが、こちらのほうが元祖である。
さて、対する本書『シュテュンプケ氏の鼻行類』のほうは、『鼻行類』をめぐるさまざまな反応をまとめ、さらに編者による評論までを収録したもの。『鼻行類』が発売された当初、すぐに高名な科学者が、本物の学術書として評価したため、多くの読者がだまされたことや(この状況は翻訳されたフランスでも、我が国でも同様だった)、内容に対する批判、それに対する作者の返事なども、幅広く掲載されている。できのいい空想は、時に現実を侵すのである。巻頭の評論では、『鼻行類』の記述が科学的に見てどの程度確からしいのか、また、科学的とは、つまるところどういうことなのかが述べられている。また、インタビューで、『鼻行類』成立の経緯が、作者自身の口から語られている。作品背景を知る上で貴重だ。小説にもあてはまるのだが、異世界創造に、社会風刺や思想をもちこむと、時代を超えた普遍性が保ちにくくなる。逆に、発想の核≠ェないと、異世界創造自体ができなくなる場合もある。『鼻行類』の場合は、一篇の詩がその核であり、物資が極端に不足した戦時と戦後の混乱期が、作品を育んだといえる。
全7巻、1987年から89年まで、3年間にわたって書かれたものである。最初の3巻は各巻読切のエピソード、終りの4巻はまとめて一つのお話しになっている。
このシリーズは西部劇である。ホースオペラがスペースオペラを産み、そこから現在のSFを産んだのだが、SFは、ここでふたたび西部劇を産んだのである。
ナインガックという惑星がある。そこは、まるでアメリカ開拓期の西部のような世界だった。地球との交流が途絶している間に、西部劇の世界ができあがってしまったのだ。しかし、たった一つの違いがあった。住民たちは、ほとんどが超能力をもっていたのである。ところが、主人公ワニには、何の能力もない。彼は能なし≠ネのだ。
物語では、拳銃に覚えのあるワニの、恋と冒険と賞金稼ぎの大活躍が描かれる。1巻目では、牧場主と協力し、悪の石油鉱山主を倒す。2巻では、騎兵隊の砦で、原住民たち相手に奮戦。3巻目では、西部劇ショーでの殺人事件に遭遇。4巻、5巻で金鉱主の悪玉と闘い、ついに倒すのだが、それはナインガックすべてを巻きこむ危機を呼び起こす。6巻、7巻では、世界の異変を修復する闘いへと、大きく広がっていく。
5巻までと、6巻以降はやや傾向が異なるが、全体として、実に軽快でユーモラス、ここちよい作品だ。大昔から、日本では西部劇小説が売れないといわれてきたが、それを逆手にとったような設定で、分りにくさもまったくない。登場人物も魅力的。あえて難を捜すと、壮大なSF的謎が、未消化なままで終ってしまったことぐらいか。そういう意味では、いまのSFと西部劇には、相いれない部分が多いのかもしれない。
(本稿はSFAの特集用に書かれた記事であるが、企画中止のため未掲載)
グレゴリイ・ベンフォード
時空と大河のほとり(早川書房)
ベンフォードの、最新にして唯一の短篇集。75年からほぼ10年間の、14の中短篇が収められている。しかも、1作ごとに作者の解説がついている。
「異星人の体内に」(原書の標題作)は、数学を思考する巨大な異星生物に入った、男の苦悩を描く。「時の破片」は遺跡の破片から、過去の声を聞く。「ボット泥棒」まぬけなロボット泥棒の話。「相対論的効果」は、光速に限りなく近づく、世代宇宙船の話。後の長篇、『星々の海をこえて』から、派生したものである。「嵐のメキシコ湾へ」はポスト・ホロコースト後、戦争で破れたアメリカのエピソード。登場人物の独白でつづられる。フォークナー風なのだという。「ミー/デイズ」は、知性をもったコンピュータの話。人工知能で有名な、ミンスキーとの会話をヒントにしている。「ドゥーイング・レノン」は、未来に甦った男が、ジョン・レノンを詐称するという話。レノンが撃たれる前に書かれたもの(1975年。撃たれたのは80年)――などなど、起伏に富んでいる。
アイデア中心のお話しが大半だが、それだけで成立ってはいない。生活に疲れた登場人物が出てきて、物語に厚みをつけているからである。だから、単なるアイデア・ストーリーという印象は残らない。
ただ、ベンフォードは、クラークの後継者とされているが、クラークよりも人物が描けている分、かえって魅力に乏しい印象が残る。その人物が、ちょっと優柔不断すぎるのだ。読んでいてもどかしい。そういう意味で、優柔不断が物語と一致する、日本版の標題作「時空と大河のほとり」がベスト。宇宙人がエジプトそのものを奪い取り、過去を再生するという作品である。
キーワードは“ニール・セダカ”(あるいはポール・アンカ) そして、ジュークボックス。1997年、痴呆症の4人の老人たちが、老人ホームで焼死する。しかし、彼らは奇妙な異世界に送られ、何ものともわからない、理解不能の敵と戦うことになる……。
本誌に分載された(1988〜89)、6つの短篇からなる、オムニバス長篇である。登場人物一人一人が、“黄金の50年代アメリカ”をデフォルメした世界を舞台に、やはりデフォルメされた人物になりきって、放射状にエピソードを紡いでいく。外見上は、ディック『宇宙の眼』と、よく似た構造で書かれている。
生体戦闘システム(ニューロジャンク)、生命言語(ランガー)、太陽系融合惑星(ユニバーサルスタジオ)、推論画像処理装置(ビデオコンポージットプロセッサー)等、各種ガジェットが登場する。山田正紀のほかの作品でもそうだが、舞台の非現実感が特に強い。とにかく、どこにもありそうにない世界なのだ。そもそも、小道具の名前が、うさんくさく安っぽい。意識的にそうなっているのだ。途中、世界は、コンピュータの内部にあると説明される。まあそれ自体は、別に謎の説明でもなんでもない。本書の特徴は、組み合わせの破天荒さにある。痴呆症の老人と、戯画化された若者、猥雑な生体兵器と、ジャンクフードの姿をした敵、生きている言語と、救世主の誕生などなど これら、既存のアイデアの、今までにない組合せが、サイバーパンク(いまさら、こういう表現をしなくてもいいと思うが)との共通点かもしれない。もっとも、ニール・セダカが、サイバーパンクなわけがないところに、作者の皮肉がこめられているようだ。
スティーヴン・キング
ミザリー(文藝春秋)
確かに、作家にとっての究極の恐怖と幸福とは、こんな形で顕われるのかもしれない。 物語は、ある“コレクター”のお話しである。彼女(もと看護婦)は、一人のベストセラー作家(主人公)を収集し、自分一人のために小説を書かせようとするのだ。もちろん彼女は正常ではなく、凄慘な肉体的暴力で作家を脅迫する。けれど、威され暴行を受けるたびに、なぜか作家の作品は、これまでのどの作品とも違った、異様な迫力を帯びていく。
標題は、ロマンス・シリーズの主人公の名前。小説内小説として、一部がはさみこまれている。本書のカバーをはずすと、その小説(『ミザリーの帰還』)が分るしかけになっている。ただ、中古のタイプライターで打たれているため、最初はnの文字が、次にe、tが欠け落ち、ついには手書き原稿となっていく。
幻想的な要素は、本書の場合、かなり希薄である。もっとも、キングはスーパーナチュラルを描いても、常に現実を踏み外さないのだが。たとえば、主人公が、しだいに小説の世界に埋没し、自分が書くということの意味を悟るあたりは、きわめてリアル≠ナある。作家はなぜ書くのか、何をもとめて書くのか、どのようにして小説はできあがっていくのか といった、いわばエッセイや講演テーマのような内容が、異常心理ものに形を変え描かれている。いや、形を変え、ではなく直截に描かれたというべきか。熱狂的(を通りこして発狂した)ファンに囚われることは、作家には最悪の状態だろうし、だれにも邪魔されず、生か死かを賭けて小説を執筆できるのは、理想的環境かもしれないからだ。いろいろな場面で、作家の実体が見えてくる。なんといっても設定が面白い。