椎名誠
水域(講談社)
本年度のSF大賞は、『アド・バード』にきまった。椎名誠は、最近SFを意識的に書き出している。本書は、本格SF長篇第二作にあたる。
世界は水の底に沈んでいる。水は、ときに澱み、ときに流れ、世界を覆いつくしている。主人公ハルは、沈みかけた舟にのって、漂流を続けている。水上に忽然と現われる高層ホテル、澱みに潜む異形の舟、そして、流木が吹き寄せられた巨大な島で、彼は、一人の女と運命的な出会いをする……。
枚数の違いもあって、『アド・バード』ほど、奇妙な生き物は出てこない。その分、物語は明確になっている。いくつかのエピソードが、つみかさなって構成されている点は、前作と同じだが、本書の場合、3分の2以上を占める流木の島のエピソードが、中心的な位置を占めている。それは、原初的な愛の物語でもある。
最初、『水域』の世界は、バラードの『沈んだ世界』を連想させた。しかし、この世界が示すのは、文明を侵す熱帯の原始≠るいは、破滅と頽廃≠ニいった、バラード的なメッセージではない。もっと根源にある、破滅への予感といった感覚だ。読み終えて気づいたのだが、このただひたすら広がる、水の世界を漂流する情景は、藤子不二雄FのSF短篇と、どこか共通している。それこそ、草創期の日本SF界にあった、原点の感性なのだろう。本誌6月号のインタビューで、作者が述べていたような、当時の翻訳小説と、少数の日本作家の作品とで創られた、独特の雰囲気がここにある。もっとも、終末を描くバラードは60年代の作家なのだから、バラードを感じさせること自体、きわめて60年代的なことなのだが。
「あまりに進みすぎた科学は、魔法と見分けがつかない」(中世の魔法を、SFで登場させる場合の科学的根拠=jという、SFの決まり文句と、文字どおり六角形に区切られたRPGの世界、さらに妖精やら精霊やらの、純ファンタジイを融合させたのが本書。これは、かなり開き直った設定で、ほとんどパターン化した使い古しを、三つ重ねて再構成しただけのような印象さえうける。
ただ、舞台設定が、あまりにわざとらしいことや、主人公が女子大生だったりで、パロディを意識した作者の姿勢もわかる。例によって結構長いのだが、内容はまずまず手堅くまとまっている。そういう意味で、成功している。
大金持ちの娘、主人公ダナエは、親の束縛を逃れるために、惑星トリプレットへ調査旅行に出かける。そこは、<トンネル>を境に、一つの惑星が、遺跡の世界、超科学の世界、精霊を呼出せる呪術の世界という、三つに共有されている特異な空間だった。かくして、案内を強要されたラヴァジン、用心棒ハートとともに、はねかえり娘の道中がはじまる。だが、旅立った世界では、不気味な陰謀が進行しつつあった……。
科学と魔法の融合という点では、ゼラズニー(アンバー・シリーズ=jなどの先駆者が、すでになんの衒いもなく、これらを混在させて使っている。作者は、それを応用したわけだが、よりゲーム的に、いいかえると現代的に構成したところが新しい。
作者のティモシー・ザーンは宇宙忍者『ブラックカラー』や「コブラ・シリーズ」で紹介ずみ。既存の作品より、かなり軽いお話。まだまだ謎がたくさん残っていて、続篇が予想される内容。
さて、この物語を語るわたし≠ニは、いったい何ものなのか。
この世界では、個性はいっさい忘れられている。だれも固有の名を持たず、固有の仕事を持たず、たがいに置きかえ可能な生活を送っている。社会には変化は生じない、進歩もなく、ただ安定があるのみ。そこに、三人の名前≠持った子供たちが現われる。彼らは、遊びとして、メモリに蓄えられた過去の記憶を呼びおこす。やがて、無数の戦いの亡霊が、現実の世界を侵しはじめる……。
世界を支える道具として、共感交換というものが提示される。すべての人々の感情が共有され、すべての考えが均質化する。ここにいたる過去には、悲惨な戦争がくりかえされたはずだが、武器塚の遺物とともに忘れさられている。しかし、その均衡を破る存在として、わたしが生じる。わたし=共感ネットワークに生じた異物=魔だ。
本書は、『電脳空間でネットワークされた、暗黒の未来情報社会』という、ありきたりな解釈で読み始めることができる。ただ、読み進むうちに、執拗に著者が主張するのは、個性というものの曖昧さ、不確かさなのだと気がつく。言葉こそ、個性を律する。言葉さええれば、ハードウェアを持たない存在さえも、現実のものとなると、本書は語っているのである。
本誌連載の6短篇がまとめられた、連作短篇集。内容的には、1つの長篇に近い。『完璧な涙』などと、よく似た形で書かれている。独立した短篇の集合であるため、全体の統一性には欠けるが、神林長平の場合、かえってその主題を増幅しているように感じられる。今年の著者の作品は、いずれもが根源的なテーマを含んでおり重厚だ。
1972年に既に書かれており、ジーターの処女長編にあたるはずの作品だったのが、あらゆる出版社から拒絶され、ようやく出版されたのが84年だった――という、いかにもただならぬ作品。序文はディック(亡くなったのは82年。これは79年に書かれたもの)で、出ていたらSF界を揺るがす反響を呼んでいただろう、とある。これまたうさん臭い。とはいえ、それだけの内容を備えた作品ではある。
悪徳の都LA。手や足など、体のさまざまな部位を切除した娼婦たち。ドクター・アダーは、一種の整形外科医で、依頼者の望む最適な外科手術とドラッグを与えるのだ。アダーは、その社会でカルト的シンボルとして、君臨している。事情を知らない主人公は、滅び去ったCIAの殺傷兵器を手に、取り引きを申しでるのだが……。
執筆後、すでに20年近くがたって、本書の価値に変動が生じたことはまちがいない。セックスもスプラッタもあたりまえになり、サイバーパンクのさきがけになる描写は、もはや旧聞である。また、伏線もなく、重要な登場人物があらわれ、大事件が起こるなど、処女作であるがための欠点が目につく。しかし、物語の背後に見えかくれする異常≠ウは、表面的な時代の変化とは無関係に、色あせていない。『マンティス』や『悪魔の機械』を読む限りでは、はっきり見えてこなかったものが、本書では、よりナマの形であらわれている。SFのガジェットや、物語の展開で、ディックを感じさせたルディ・ラッカーとは、また違った意味の(根が)ディック的な作家といえるのかもしれない。どちらにせよ、ジーターの特異さを、見直すきっかけになる。
意外にも、荒俣宏初のSF短篇集。本誌に分載された四篇に、書き下ろし一篇を加えたもの。五つの作品の何れもが、作者の敬愛する作家(幸田露伴、夢野久作、五木寛之、小林多喜二、渡辺淳一)に捧げられているのだという。とはいえ、それは主にテーマや文体に関するもので、物語自体はまったく独創的な内容である。
戦後の混乱期、帝銀事件でゆれる東京で、ゑびすが殺される。似ている、というのではない、ゑびすそのもの≠ェ殺されたのだ……。標題作は、こうして始まる。
明治以降の日本の近代史、いや東洋史自体、妙になまぐさく政治的で、妖異の入りこむ余地を感じさせないのだが、荒俣宏はその常識を打ち破ってきた。『帝都物語』が典型的だけれど、本書もまたそうである。
帝銀事件の裏で神々の堕落が起こり、蒋介石の死の裏で数千年を生きた仙人が帝国の運命を占い(「長生譚」)、九龍城砦に潜む清朝の末裔と天安門事件の逃亡者が出会い(「迷龍洞」)、小樽の港で小林多喜二は人魚と化した愛人の姿を見(「蟹工船」)、森鴎外はベルリンに死体の美学を知る(「恋愛不能症」)……。
他のだれが、台湾の故宮博物館に寿老人を登場させたり、プロレタリア文学「蟹工船」に、ファンタジイを感じたりするだろうか。ここに描かれる、昨日の過去に生きた有名人や事件は、史実の印象からは程遠い行動をとる。彼らは、もはや、われわれの知る歴史上の人物ではない。別の世界を生きる、異界の住民たちである。どろどろとした歴史の暗黒面は、ありふれた権謀術数のドラマではなく、非現実のファンタジイに、みごとに昇華されている。
小林めぐみ
ねこたま(富士見書房)
第2回ファンタジア長篇小説大賞準入選作。第1回の準入選作家の神坂一には、すでに2作の著作がある。富士見ファンタジア文庫は、創刊以来、毎年50冊前後を出すヤングアダルト文庫の大御所(約2割のシェア)。ヤングアダルト分野は、SFにかぎっても、翻訳をのぞいた文庫新刊の、およそ7割を占めるに至っている。角川、朝日ソノラマ、富士見が御三家。ただ、作家の数はあまり多くない。たいていは、年に5〜10作以上の各種シリーズものを量産する作家に支えられている。
本書は、そのなかでも、新人賞に値するという評価を受けている。(つまり、まだだれも書いていないユニークさがある)。全体的な傾向を知る上でも興味深い。
物語は、貴族社会の形骸化した、ある王国を舞台に、<王女の卵>を発見した主人公たちの冒険物語。全体として、このたぐいの類型化したファンタジイのパロディ風、ギャグマンガ風に書かれている。とはいえ、最期には、SF的な設定の種明かしまでされていて、その点は、ちゃんとまとまっている。設定を、イメージだけで、ほうり出してしまわず、一応の決着をつけた点は評価できるだろう。
小説の完成度には問題がある。たとえば、登場する人物の心理状態や、事件の意味は、最期になってもよくわからないままだ。要するに、本当らしさが、まだ不足している。何も、この作家にかぎらず、ヤングアダルト系では、まま見られる傾向だろう。枚数制限など、制約条件も大きい。しかし、同じ枚数で、きっちり書いている作品もある。不可能なことではない。とはいえ、一種独特の固有名詞と、漢字の使い回しなど、文章表現力は魅力だ。今後は、既存のパターンにはまりこまない、オリジナルな設定を望みたい。
白水社からでている、幻想小説アンソロジイの最新刊。英米篇などは、昔から多種多様にあった。しかし、アジア、特に韓国/朝鮮のものは少ない。中国にしても、おおむね『聊斎志異』など、古典にかぎられる。これには明らかな理由がある。近代以降、侵略と戦乱にあけくれた状況が、幻想小説≠ニいうぜいたくを許さなかったからである。SFやファンタジイは、たしかにある種の逃避だが、貧しさからの逃避としては成立しない。豊さが得られないかぎり、決して育たない分野なのである。
本書の場合、キーワードはリアリズム≠ナある。朝鮮篇では、売春婦の情夫からみた歪んだ世界「つばさ」、飛べることを教える鶏の社会「狂った鳥」などが印象的だ。どの作品にも、強烈に社会状況が臭っている。そしてまた、貧困の暗い陰や、政治の抑圧が描かれている。日本占領化の朝鮮半島、独立後の軍政という事実を踏まえなくてはいけない。
一方、中国篇では、並木にかくれる兄妹に語りかける木「もの言う木」や、寓話「復讐の剣」などが、権力に対する普遍的な疑義を表明している。傾向が異なるのは「秋の水」で、これは現実を越えて、まさに魔術的リアリズムと呼べる作品である。
傑作集の中国篇では、約3分の1が今世紀に入ってからの作品(残りは古典から)。朝鮮篇は、すべてが近代〜現代のものだ。その意味で、貴重なアンソロジイといえる。ただし、本書には、SFまでは含まれない。SFに関しては、昨年『中国科学幻想小説事始』が出て、状況の一端を知ることができたし、もう一つの歴史を描いた、卜鉅一『京城・昭和六十二年』で、幻想と現実の接点を描く新しい手法がうかがえるだろう。
第1回日本ファンタジイ大賞を、『後宮小説』で受賞した(と書くと大仰すぎるが)酒見賢一の第1短篇集。話題作のあとだけに、大いに期待が集まる作品集である。
全部で5つの作品が収められている。同傾向の作品ばかりを集めたわけではなく、さまざまな内容が混淆している。ざっと紹介すると、「そしてすべて目に見えないもの」は、ミステリの犯人捜しを皮肉った、一種のメタフィクション。「籤引き」は、犯人を籤引きで決める、未開の村に就任したイギリス人の話。「虐待者たち」では、ペットの虐待に復讐する主人公が、現実を踏み越え、幻想の中に迷い込む。これらは、作者の新趣向を現わすもので、野心的なテーマである。ただ、既に多くの類似作品が書かれているため、とりたてて斬新とまではいえない。
その一方で、やはり作者ならでは、と思わせるのが、以下の2作である。標題作「ピュタゴラスの旅」は、音楽の神秘的な力を信じるピュタゴラスと、懐疑的な助手との物語。また、「エピクテトス」は、徹底的に苦難に耐える奴隷哲学者の、すさまじい生きざまを描いたもの。両作とも、抑制の効いた淡々とした文章で書かれており、印象に残る。やはり、こういった歴史風ファンタジイが似合う文体なのだろう。あるいは、虚構を歴史的(疑似)事実の上に、組み立てるというやり方が、酒見賢一の最大の特徴なのかも知れない。
ただし、本書のピュタゴラス(一般にギリシャの数学者として知られているが、実は神秘主義者として教団を組織した)も、エピクテトス(ストア派の哲学者で、生涯奴隷だった)も、『後宮小説』の主人公と違って、実在の人物ではあるが。
井上祐美子
長安異神伝(徳間書店)
主人公は、二郎真君と呼ばれる。天界の若き将軍であり、人と神との間に生まれた半神でもある。時は、大唐帝国2代皇帝李世民の時代(7世紀頃)、ところは巨大な長安の都。折から、奇怪な連続流血事件が発生する。しかし、それは、何ものかの呪詛の念を感じさせる、一連のできごとの始まりにすぎなかった……。
長年需教の影響下にあった中国では、本来の意味での神話が失われており、種類もあまり豊富とはいえない。しかし、その一方で、天下国家の現実指向と表裏一体に、神仙思想の流れがあって、ファンタジイの大きな源となっている。本書は、そういった背景と、唐代の中国という、今日の中国とも違ったユニークな時代を融合させ、新鮮な異世界を描きあげている。
作者井上祐美子は、ファンライターのキャリアも長く、本書が長篇第2作目にあたる。純粋の新人とはいえない。とはいえ、1作目(ヤングアダルト向けファンタジイ)と、まったく作風の異なる、骨太な冒険ファンタジイである。並の新人にありがちな、物語や文章の破綻は、ほとんど見られない。正確な時代考証や、背後の豊富な知識を感じさせる、奥行のある内容だ。あえて難点を上げるとするなら、まとまりすぎて、破天荒さが希薄な点か。続篇での、さらなるスケールアップを望みたい。
本誌に連載された『風よ、万里を翔けよ』(田中芳樹)や、歴史文学賞の受賞作「博浪沙異聞」(狩野あざみ)も中国ファンタジイだった。日本人が書くと、簡単に底が割れてしまう欧米流剣と魔法≠フ世界より、題材の豊富さからいって、取入れやすいと思われる。今後増えていく可能性が高い。
横田順彌の、押川春浪らを主人公にした、明治シリーズ(といっても、明治末期)第2作。他にも、鵜沢龍岳シリーズや、中村春吉シリーズなどがあり、一連の架空歴史ものを構成している。
前作『火星人類の逆襲』は、『宇宙戦争』(ウェルズ)が現実だったらというお話し。本書は、同様に『失われた世界』(ドイル)が実在したなら、という設定である。
チャレンジャー教授が南米から帰国後、再び探検を行なうと聞いた生物学者丘博士は、春浪らに独自の探検を要請する。火星人事件での活躍を聞いたからだ。一行は、移民船で太平洋を横断、さらに飛行船にのって一気に台地をめざした。目的地はメイプル・ホワイト台地 今日知られるギアナ高地である。そこは、恐竜や原始人の跋扈する魔境だった。しかも、ドイツ軍の部隊までもが、彼らの行く手に立ち塞がる……。
前回は、明治の東京風景などがあって、雰囲気をつくっていた。今回は、大時代的な舞台設定ロスト・ワールド≠ナ、お話しを盛り上げようとしている。もちろん、前作同様、本書の登場人物には、確固とした裏付けがある。たとえば、丘浅次郎博士は、進化論で著名な生物学者だし、マイナーな存在のドイツ人SF作家ハンス・ドミニクも、実在の作家である。
物語は、1914年(大正3年)で、第1次世界大戦の暗雲を感じさせて終わる。史実では、この年、押川春浪が38才の若さで亡くなっている。しかし、本シリーズではそうならず、別の歴史が拓けて行くようである。この時代背景は、作者独特の蓄積の上に成り立っており奥が深い。つぎにどんな異世界が現われるのか、大いに期待できる。