SFアドベンチャー1991年掲載分(後半)


田中芳樹
風よ、万里を翔けよ(徳間書店)

 著者初の中国もの長篇。歴史ファンタジイというより、本格的な歴史活劇≠ナある。
 隋の時代、皇帝煬帝の治世に生きた男装の麗人、花木蘭の物語。父に代って従軍した伝説上の人物で、京劇などでも採りあげられているという。7世紀の初めごろ、史上最大の統一帝国を打ち立てた隋は、しかし2代皇帝の時代になり、巨大な土木工事と3度におよぶ高句麗遠征によって、疲弊混乱し滅んでゆく  建国から滅亡まで、わずか37年。その末期9年間、大乱の時代が本書の舞台である。
 本書では、史実にもとづく多くの登場人物があらわれ、それぞれに逸話が書かれている。煬帝はもちろん、たとえば隋の名将たち、薛世雄(遠征に失敗し撤退する軍を統率)、揚玄感(後に反乱を起こす)、沈光(親衛隊士官)、張須陀(少数の部隊で反乱軍を圧倒)などなど、数十人が現われ、消えていく。
 しかも、主人公だけに的が絞られているわけではなく、群雄割拠の時代そのものが主題とも読める。逆にいうと、1エピソードが終わったぐらいでは、いまひとつ喰いたりない。とても十分に思えないのである。ただし、同じ時代、同じ人物を背景にした作品が、この後も順次書き継がれていく予定なのだという。膨大な資料の裏付けもある。題材は豊富に残されているのだ。お楽しみはこれから、ということか。
 『銀河英雄伝説』でも見られたが、田中芳樹の描く権謀術数と戦乱のドラマには、中国の歴史が背景となっているものが多い。広大な大陸で、さまざまな策謀が繰り返され、無数の英雄たちが活躍し、膨大なエピソードを紡ぎだした。その中国を舞台にした長篇ということで、まだまだ期待がもてる。

ジョン・ソール
クリーチャー(扶桑社)

 ジョン・ソールは1977年にデビューして以来、年1作のペースで新作を発表し、多くがミリオンセラーになっている。全著作数が15冊というのは、ホラー界の巨頭と呼ばれる割りには少ない。少ない中で、一定の質を保とうとすれば、作品傾向が似通ってしまうのも当然かもしれない。(一方で、クーンツのように、さまざまな題材を描きわけ、著作が60冊を越える作家もいる。デビュー後の経過も違うし、キャリア自体10年長いとはいえ、対照的である)。
 本書は、『ゴッド・プロジェクト』以来の医学サスペンスである。
 幼いころ病に侵され、発育不全となった少年マークは、ある日、ハイテク企業につとめる父親の転勤で、ロッキー山脈にいだかれた夢のような街、シルヴァーデイルにやってくる。何もかもが理想的だった。清潔で、秩序が保たれ、すべての人が幸福に満ちあふれているように見えた。そして、科学的トレーニングを受け、たくましい体を得た少年たち……。
 前半の静かな展開から、後半、マッド・サイエンティストによる医学実験の真相へと、一気にお話しが進む。実験を行なう側の行動に、やや説得力を欠くきらいはあるけれど、大がかりな犯罪を描いていて、さすがに読ませる。
 ホラーと分類される作品では、込められたメッセージも、たいてい単純なものである。本書も例外ではなく、因果応報というか、神に逆らうものが産み出した生き物(クリーチャー)≠フ、戦慄の末路が描かれているだけだ。ただ、一抹のやさしさが、主人公に対して残されている点が救いとなって、本書の印象を深めている。

小林恭二
悪夢氏の事件簿(集英社)

 都内某所に、アカギという名のホテルがある。そこは、貧乏外人たちがたむろするホテルで、正体不明の怪人物がおおぜい滞在している。なかでも、悪夢氏とよばれる日本人には、その名のとおりの不可思議な秘密があった。
 悪夢氏の名の由来、その兄弟ともいえるMが暗躍する自殺クラブ、不滅の魂が宿る男の悩み、不成功を目標とする倶楽部の顛末など、以上4つの連作短篇からなる作品集。いずれも、死にまつわるエピソードが、ユーモアを交えて描かれている。登場する人物たちは、一人残らず、後ろ向きに生きている負の存在≠ナある。しかし、負であるために、誰もが味わえない奇怪な運命に囚われている。
 小林恭二の場合、代表的な『ゼウスガーデン衰亡史』や『小説伝』をはじめとして、多くの作品がSFに分類できる。分類すること自体に、大きな意味はない。むしろ、害がある。しかし、現代小説では、設定や展開がSFと似通うことは避け難い。何がSFなのかというと、発想の奇想性がSFに近い。社会に対する突き放した見方も、SFを連想させるのだろう。これは、時代状況の問題なので、作者の意志や小説のオリジナリティとは、無関係に決まってしまう。評者は、特にこだわって読まないのだが、なぜか、小林恭二を読むたびに、SFであると感じてしまう。このあたりの理由は、本誌1989年12月号のインタビュー記事が、参考になる。
 本書には、最先鋭の作品にあるような、強烈な破天荒さはない。やや軽いお話しといえる。しかし、一作一作の着想は、並みの作品ではお目にかかれない、いくつものアイデアを混淆させた水準の高いもので、十分に楽しめる。

巽孝之編
サイボーグ・フェミニズム
(トレヴィル)

 サイボーグ・フェミニズム≠ニいう奇妙なことばは、本書に収録されたディレイニーの評論をもとに、編者巽孝之がアレンジした造語である。サイボーグもフェミニズムも、それ自体では、目新しさのない言葉だが、この結びつきから生まれる概念は、ポスト・サイバーパンク時代を表現する、新しい象徴といえる。
 本書は3つの翻訳と、編者による2つの総括(序章、終章)から成り立っている。
 まず、ダナ・ハラウェイによる「サイボーグ宣言」は、現代のマイクロ・テクノロジーの発展により、肉体と機械(あるいは情報)の融合によるサイボーグ化≠ェ生じ、人種、若者対老人、とりわけ男女の性差という、根源的で単純な、二項対立の世界観が突き崩されるとする。しかし、ディレーニーは、ハラウェイの論理自体が古臭く、矛盾する表現を多く含むと一蹴、マキャフリィの『歌う船』などを例に、批判を加える。最後にサーモンスンは、同じ『歌う船』を肯定的に読むことで、ディレイニーに反論している。一方、編者はティプトリーやコールダーの短篇、演劇『M・バタフライ』などを例示しながら、これらの議論を補強している。
 この評論集はさまざまな意味で、象徴的である。たとえば、ハラウェイの評論は社会主義評論誌に載り、多くのフェミニストに影響を与えたが、SFサイドから反論を書いたディレイニーは黒人ゲイ作家、またサーモンスンは性転換作家というように、どの評論も、旧来の価値観とは異なった、新鮮で多様な視点から論じられており、興味深い。
 何れにせよ、早くからこれらの動向を見極め、本書を企画した編者の見識を、まず評価すべきだろう。

神林長平
敵は海賊・海賊たちの憂鬱
(早川書房)

 火星のサベイジは、無法都市であると同時に、海賊と官憲との中立地帯でもあった。そこに、太陽系連合の次期首長候補が乗り込む。海賊の頭目と会談し、自ら悪の根源を断とうというのである。護衛についたのは、おなじみの海賊課警部、アプロとラテルだった。しかし、正義の政治家の背後には、太陽系を危機に陥れる、得体の知れない憂鬱≠フ翳が潜んでいた……。
 アプロとラテルの海賊シリーズ第3作。3年ぶりの新作である。何でも喰ってしまう猫型エイリアンのアプロ、振り回されるラテル、人格をもった戦闘艦ラジェンドラと、主人公たちは今回も健在で、活躍してくれる。ただ、従来のシリーズ作品よりも、「存在の不確かさ、確かな存在が、あり得ないものへと変わっていく不気味さ」という、神林のメイン・テーマが、より強く反映されている。つまり、確固とした履歴と、信頼関係を築いてきたはずの一人の人間が、情報を消されることで、存在しなくなる恐怖である。本書の場合は、その後に、自己の目的に疑問を感じさせる、憂鬱=i海賊が海賊をやめたくなる)の正体という、最後のどんでんがえしまであって楽しめる。軽快なドタバタだけではない点が、本シリーズの特色といえるだろう。
 もともと、海賊シリーズ自体、作家支援コンピュータが、自動的に書いた小説という設定なので、何が起こっても矛盾とはいえないのである(『敵は海賊・海賊版』参照)。残念なことに、最近は、この設定があまり生かされていない。ビデオ化までされたシリーズだし、キャラクターをないがしろにはできないだろうが、個人的には、もっとコンピュータの創造した小説≠活用した作品も読んでみたい。

鈴木光司
リング(角川書店)

 第2回ファンタジー大賞、優秀賞『楽園』(アニメ化もされた)の作者である、鈴木光司の授賞第1作。
 主人公は新聞記者である。ある日、妻の姪が急性心不全で死んだ。同じ日に、その友人たちも死んでいた。まるで、見えない化け物に襲われたかのように、恐怖の表情を浮かべながら――そして、調べていくうちに、彼は一本のビデオテープにたどり着く。再生されたビデオには、最初に手書きの文字があらわれる。次に火山の映像、サイコロの転がる様子、警告する老婆、赤ん坊、憎しみと敵意に満ちた無数の顔、旧式のテレビ、血まみれの男の姿……。
 どこにでもある家庭用ビデオテープを題材に、ありえない光景が録画される。しかも、それは明らかに機械によって撮られたものではなかった。ほとんど脈絡なくあらわれる映像を、一つ一つ明らかにしていく過程、謎の探求が本書の物語である。最後に明らかにされる、テープの正体など、視覚的な効果が印象に残る作品だ。写真や絵画を題材にしたホラーは多いが、ビデオをうまく扱ったものはまだ少ない。
 作者の『楽園』は、海洋冒険小説である第2部が、高い評価を集めた。評者も同意見で、登場人物たちの生き生きとした描写はじつに見事なものだった。しかし、本書の場合、新鮮なアイデアがありながら、なぜか一気に読み進めることができない。物語の組み立てに、納得できない部分があるからだ。たとえば、最大の謎が判明する直前に、友人の意外な性格が明かされる場面が置かれているが、もっと綿密な書き込みがあれば、効果があがったはずである。登場人物の描写と、お話しのバランスがやや悪く惜しまれる。

トリシュ・ジェーンシュッツ
霊能者狩り(東京創元社)

 被害者は霊能者、そして犯人も霊能者――それだけではない、殺人犯を追う刑事も霊感を持っていた。フロリダの小さな町ヒドゥンレイクは、霊能者たちの住む町なのだ。
 物語は、事件にまきこまれたルポライター、女刑事、犯行現場を霊視した目撃者≠轤フ、犯人捜しとして描かれる。こういうタイプの作品では、まずギャレットの『魔術師が多すぎる』(ダーシー卿シリーズ)が思い浮かぶ。魔術が日常あたりまえの異世界で起こった、密室殺人事件の謎を解明するというお話しで、しかも、あくまで本格推理の形式を踏襲していた。ただし、SFで明確にミステリが指向されることはめったにない。SFの自由度と、ミステリの約束事が相容れないためで、これは昔からの定説である。
 本書は、ミステリの舞台を超心理の世界に求めた点で、むしろSFミステリとは逆の立場である。さらに、ミステリでかつSF、冒険小説でもあるという、最近の大衆小説<<Cンストリームを反映した作品でもある。女刑事と同僚のもと愛人、部下の行動に手を焼く署長、霊能者を排斥しようとする新聞社主など、さまざまな葛藤を軸に、やがて第2の犯行が起こり、背後に潜む巨悪≠フ存在が明らかにされていく。
 犯人は意外だが、あまり驚きはない。登場人物の数に、埋もれてしまったためだろう。にもかかわらず、さまざまに挿入された、超心理学用語や予知の場面など、一つ一つはとりたてて目新しくないけれど、それらの配置が、読み進める上でのドライブ感を高める効果をあげている。つまり、本書の価値は犯人捜しではなかったわけだが、そういう点でも、読む過程の面白さを重視した、流行のスタイルを反映しているのかもしれない。

水鏡子
乱れ殺法SF控(青心社)

 水鏡子(すいきょうし)≠ニは、奇妙な筆名である。もしかすると、翻訳の解説や専門誌のレビューなどで、この名前を見かけ、読み方がわからず、こまった人もいるかもしれない。少なくとも、評者などよりは有名人であるわけだ。それでも、謎の人物には違いがない。タイトルからして、何のことだかわからない、正体不明の本である。
 本書は、次のような構成で書かれている。まず、『宇宙船ビーグル号の冒険』の読み方(1章)、自身のSF観を形作った個人的な体験(2章)、SF基本型としてのアンダースン論と山田風太郎論(3章)、アメリカ50年代SFのモデル化(4章)とつづく。
 きわめてプライベートな第2章を、同時代人の感傷で読んでもいいが、たいていの人は、10円の定価の差で、本の価値を決めるくだりは(あまりにばかばかしくて)理解できないだろう。ヴォクト、アンダースンなどの過去の作家論となると、膨大な翻訳書に埋もれてしまい、親近感すら抱けない。ただ、詳しいあらすじや、その歴史的な意義も書かれているから、著者の立場や、なにが論点なのかはわかる。対象が1950年代のアメリカSFというだけで、本書の核心部分は、普遍的なSF論なのである。今日の日本では、多くの立派なSF論が入手できる。しかし、日本人による書き下ろしとなると、石川喬司、中島梓や笠井潔など、数えるほどしかない。本書のユーニークさは、社会学などを援用しながらも、あくまで読者という(原点の)立場にこだわっている点だろう。
 本書の最後には、読書家水鏡子としての本領が発揮された、ティプトリー論が収められている。過去のアメリカSFに興味がない人も、この部分は読む価値がある。

ロバート・R・マキャモン
アッシャー家の弔鍾(扶桑社)

 昨年の暮れから、精力的な紹介がはじまった、マキャモンの翻訳第4作目。
 題名からわかるように、ポオの「アッシャー家の崩壊」がその下敷となっている。そして、本書のいたるところに、ポオへのオマージュ(たとえば小説「黒猫」「陥穽と振子」、詩「大鴉」などなど)が顔を覗かせているという。とはいえ、雰囲気はポオから遠く離れており、無数の登場人物と派手な舞台装置からなる、作者独特の作品となっている。これは、オリジナルの発表年(84年)が、作者の評価が確立した時期であることとも関係するだろう。
 ポオの描いたアッシャー家は実在し、現代に至ってなお、巨大武器産業の領袖として君臨している。主人公リックス(ちなみに、この主人公は、マキャモン自身を暗示するという)は、兄から父危篤の知らせを受け、巨大なアッシャー家の領地に帰ってくる。彼は作家だったが、長いスランプを抜けられず、持病の悪化に苦しんでいた。そこで、禁じられた一族の歴史を書くことで、作家としての行き詰りから逃れようとする。ところが、狂気と繁栄に満ちた過去を調べるうちに、その背後に潜む、忌まわしい何ものかがうかびあがってくる。当主たちを蝕むアッシャー病とは何か、なぜ巨大な邸宅〈ロッジ〉が封印されているのか、森に出没する人さらい〈パンプキン・マン〉は実在するのか……。
 最後のどんでんがえしまで、ほとんど予想がつかない展開となっている。思ったより意外な終わり方をした。一定の水準は踏み外さない作者だが、これまでの紹介作中ベストに挙げてもいいだろう。ただ、最大の謎が明されないままなのは、続篇への含みがあるからか?

フィリップ・K・ディック
ニックとグリマング(筑摩書房)

 ディックのジュヴナイル。
 猫を飼うことも許されない、過密の地球を捨て、少年ニックとその家族は「農夫の星」へと移住する。けれど、その星では、異星人グリマングと、土着の生物との戦いが続いていた。ニックは、偶然、読むたびに内容がかわる、グリマングの本を手に入れる……。
 子供向きに、異星生物を多数登場させ、物語をつくっている。とぼけた巨獣ウーブ、翼手竜の姿で狡猾なワージ、おしゃべりなスピッドル、人に擬態するオトウサンモドキ、あらゆるものを複製するフクセイなどなど。ただ、これらはディックの短篇など、どこかで既に見知ったキャラクターばかりだ。それに、グリマングやその本は、『銀河の壷直し』に再登場する。ジュヴナイルといっても、決して孤立した作品ではない。
 執筆は1966年。この1作前の作品は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で、全く同時に『ユービック』が書かれている。1作あとが『銀河の壷直し』だった(いづれも執筆年)。設定の共通点なども多い。本書を書いた前後のディックは、8年間に18冊を書き、もっとも多作な時代だった。生活のための、量産時代でもあった。しかし、この時期は、SF界内部での高い評価が確定し、SF作家ディック≠ニして全盛期にあたる。それだけ安定した時期でも、畑違いの本書は、結局どこにも売れなかった。著者の死後、未発表原稿の中から発見され、88年にようやく発売されたものである。
 ディックには、作品のバランスを崩してでも、ハッピーエンドを渇望するような作品が多い。本書も、単なる勧善懲悪に終わっていない。そういった、幸福への強迫観念≠ェ背後に横たわっているせいだろう。

鳴海章
ナイト・ダンサー(講談社)

 単なる故障で終わるはずのできごとだった。その年も終わろうとするある日、成田からニューヨークへ向かうジャンボジェット機が、事故で飛行困難となり、日本へ引き返すことになったのだ。貨物室の扉での気密が破れ、しかもエンジンの1つが故障するという二重事故だった。しかし、貨物室のスーツケースで、密かにアメリカに運ばれていた新種の細菌NC90Yが、機内に漏出していた。それには、アルミ合金、たとえばジュラルミンを急速に腐食させる性質があった……。
 本年度、江戸川乱歩賞授賞作。社会派ミステリといわれる、真保裕一『連鎖』とのダブル授賞。本書は、むしろ、翻訳冒険小説に近い内容だろう。旅客機を撃墜すべく、追いすがるアメリカのトムキャット、迎撃する自衛隊イーグル、早期警戒機E2Cや対地ヘリコプターアパッチまで登場する。マニアむけの、ガジェット小説でもある。著者の趣味をうかがわせる凝りようだ。けれど、描写に淀みはなく、メカフェチ以外でも、軍事ハイテク同士の熾烈な戦いを楽しむことができる。
 それだけで充分にぎやかなのだが、国際政治の陰謀や、エスピオナージ、数十年来の人間関係がからみあって、非常に複雑な構成となっている。ただ、こういった内容は、短いスペースで、あらすじを紹介するときこそ気になるものの、読んでいる間は、まったく問題なく頭に入ってくる。その点が優れているともいえるし、欠点ともいえる。ガジェットがめだって、ほんとうなら、縦糸を構成すべき陰謀の部分が浅いのだ。図式的に過ぎるのかもしれない。おそらく、昨今のエンタティンメントとして、本書の内容を書き切るには、この倍の分量が必要なのだろう。枚数制限もあって、やむをえないのだが。