帝王の殻
神林長平(中央公論社1990/2刊)


SFアドベンチャー
(1990年5月)

装幀:袴田一夫

 “火星”という言葉は、神林長平にとって、ある種のキイワードであるらしい。同じ舞台でありながら、神林のいくつかの作品に顕われる火星には、未来史など歴史的な一貫性が、もともと含まれていない。たとえば『火星のタイムスリップ』(ディック)の火星が、実在する火星と何の関係もない世界であったことと、同じ意味である。そこは、著者がデビュー以来執拗に追いもとめる、人間と言葉、人間と機械の接点(あるいは分岐点)なのである。物語の形態により、“火星”は自在に変化する。

 秋沙(あいさ)能研は、情報の根幹であるアイサネット(ネットワーク)と、PAB(パーソナル人工頭脳)を生産し、火星を支配する巨大企業である。企業の長、秋沙享臣は、帝王とよばれた。息子の恒巧は、帝王を嫌っていたが、やがて父のもとに帰り、孫が生まれる。しかし、孫の真人は、まったく言葉を喋ろうとしない子供だった。そして、帝王が死ぬと、すべての財産をこの孫に与えるという、遺言だけが残されていた。ところが、アイサネットを制御する機械知性アイサックが稼働した日、真人は突然話し出す。わたしが、この火星の帝王であると……。

 本書は、父と子の相剋を中心にして、いくつかの問いかけを行なっている。
 一つは、機械に言葉を問いかけることで、本物の知性、人間が生まれえるか、という問題である。

 PABは、人工副脳ともよばれる。人々は自分たちのPABに話しかけることで、精神的な安定を保つ。PABは、まるでその本人であるかのようにふるまう。たとえば、享臣の死後、PABは本人として支配を続ける。だれも、本人と違っているとは認めない。

 もう一つは、すべてのPABを結びつけたアイサネットと、幼い頃から接触していた真人は、はたして機械なのか人間なのか、という問いかけである。

 3年ほど前のエッセイで、神林長平はワープロを使って創作することは、人間の思考と作品との間に、何か別のものを挟みこむことだと述べている。これは、単純にかな漢字変換が思考を妨げる云々ではなく、道具であるはずの機械そのものが、人を変質させてしまうのだという主張である。知能をもたない機械ですらそうなら、PABを日常的に使う社会では、はかりしれない変容が生じるはずである。当然、そのPABとしか接触のなかった人間の思考は、機械(非人間)のものだろう。

 物語は、これまで惰性で日常を送っていた恒巧が、真人の帝王宣言を契機に、主体性を取戻していく過程が描かれる。それは、先に述べたように、父と子の相剋なのであるが、父(享臣=PAB)対、子(恒巧)あるいは父(恒巧)対、子(真人=機械知性?)という二重の構成をとっている。しかし、最後は、人間としての父と子の関係に収斂していく。――この結末をどう解釈するかで、多少評価が変ってくるだろう。

 とはいえ、本書は神林長平のベストに数えられる作品である。1冊の長篇としては、もっともまとまりがある。何度もくりかえされる登場人物たちの独白も、物語を補強してくれている。

 なお、本書自体は、初期作『あなたの魂に安らぎあれ』(1983)と互いに共鳴関係にある。つまり、火星というキイワードを介して、どちらかが、もう片方の幻想=夢なのである。

 また、本書に登場するPAB(および設定の背景)は、短篇「兎の夢」(1985)を原型にしているようだ。