97/11/1
恩田陸『光の帝国 常野物語』(集英社) ゼナ・ヘンダースンのピープル(同胞)シリーズを意識したとある。しかし、聖書の引用を使ったり、キリスト教的なヒューマニズムを根底に持った(半ばストイックとも感じられる)ヘンダースンとは違って、本書の場合は個人的な感傷が色濃い。その分、素直に読めてよいとはいえる。お話のベースは、超能力を秘めた住人、常野の人々がスランのように迫害され、常人のうちに潜んで暮らすという展開で、伝統的パターンを民話風に捻った内容。短編連作でもあり、未完成なエピソードも多い。基本的に一話完結の十話(「遠野」をもじった、「十の物語」なんてのもあったが)で構成される。 |
97/11/3
『SFマガジン1997年12月号』 ティプトリー特集である。今時のティプトリーにどのような評価が下されているかは不明だが、最新の『故郷から10000光年』が出てから、すでに6年が経過しており、埋もれた名作に近い印象ではないのだろうか。ある意味で、本書に寄せられたエッセイや評論を読むことで間接的にその存在を知るという形である。歴史書を読み解くのと、あまり変わりはない。新訳短編「いっしょに生きよう」「リリオスの浜に流れついたもの」も、書誌的価値の方を重視すべき内容で、ミステリアスな作者を超えるお話ではない。単発で読むには、やや苦しい。短編集でじっくり読むべし。なんといっても、翻訳は全部で五冊(短編のみ)だけなのである。 |
97/11/9
『血』(早川書房) 9月に出た吸血鬼テーマのオリジナル・アンソロジー。ドラキュラ生誕100年を記念したもので、日本では珍しい部類(吸血鬼という題材自体の国産化歴が短い)になる。この中身も、数多い英米のアンソロジーとは異質の内容である。およそ類型のヴァンパイアを超越している。この点は善し悪しだろう。菊地秀行、佐藤亜紀、佐藤嗣麻子、手塚眞あたりが比較的トラディショナルな扱いであり、大原まり子、小池真理子、篠田節子や夢枕獏になると「血」という共通項目のみとなる。その点、テーマ・アンソロジイの一体感に無理があるように感じられる。日本で編まれる必然性を考えるとやむをえまいが、たとえば各物語ごとにテーマとの関わり合いを解説する簡単な前書きを設けるなどで、有機的なつながりを演出することもできたのではないか。 |
97/11/15
宮部みゆき『蒲生邸事件』(毎日新聞社) 昨年10月に出て、「97年版このミス」でも日本部門4位につけ、定評がある旧聞中の旧聞ともいえる作品だが、SF大賞受賞ということで読んでみた(まあいいかげんな動機)。とはいえ、本書には時間旅行者が登場し、殺人事件(風)の展開はあるものの、主たる内容はミステリというよりSFといえる。ただし、歴史の流れに対する見方は、あくまでもシニカルであり、そこに係わっていく事はできない、個人の力などない、と割り切る点はSF者から見るとやや魅力に欠けるかもしれない。同じ昭和初期を扱ったタイムトラベルものでも、広瀬正『マイナス・ゼロ』はあくまでもドライに時間を捉えていた。従来はそれが正しいSFだった。 さて、本書がSF大賞であるという意味だが、(1)エヴァンゲリオンのみでは社会の状況を追認するのみでカッコ悪い、(2)今後、篠田節子や一部ホラー、ミステリ系まで範疇を広げる布石、等が考えられる。ただ、いまさら宮部みゆきやエヴァにSF大賞が与えられても、話題性も営業的にも、ほとんどメリットがない点は悲しい。 |
97/11/22
京都SFフェスティバル1997(11月16日) 京フェスが終わってもはや1週間が過ぎたので、簡単なレポートのみを書いておきます。内容は本会企画と呼ばれる京大会館で行われたDaytimeの企画のみ。合宿での出来事は、他のかたがたの日記/レポートをご参考に。 最初の企画は、尾之上俊彦、冬樹蛉、三村美衣(司会)による「SFのジャンル意識について」。本当のテーマは「SFがなぜ屑なのか」。とはいえ、実態のテーマは「SFがこんなにつまんないのに、どうして俺達はSFにこだわり続けるのか」ということで、客観的SFの状況を外から見ているようで、実は自分を見ていた、というような矛盾がつきまとう内容です。SFファンの平均年齢が毎年上がるのは問題、とはいえ、上がり続ける限りはファンが付いているという意味にもなる。考えてみれば、それでもいいように思いますがね。 |
2つめは、高野史緒、大森望(聞き手)による「芸術とSFの交点」。 マガジンではSF作家といわれたくない、もっと芸術を、といっていた高野史緒さんですが、意外にもSFオタクファンと近い感性があることが分かりました。かつてはマガジンの新人賞にも応募したことがあり、今回の新作にもそのときのテーマが生かされているとか。まーしかし、小柄でおとなしそうな外観とはうらはら、思ったよりも饒舌な人で、一昔前(って、いつ)ならば、ファンダムの名物になったかもしれませんな。 |
3つめが、水城徹、松浦晋也、野尻抱介(司会)による「宇宙開発とSF」。京フェスでこのような企画を見るのは初めてですね。ロケットの話で、おそらくSFファンの多くは、かつてロケット少年/天文少女だった(前述、高野史緒さんも)はずなので、結構受けていたようです。今でもロケットを作ろうなんてやつは、筋金入りの工学系オタクのようで、なかなかコワイ。ハードSFといっても、カオス理論以降の、ラヂカル・ハードSF(スターリング等)とは、縁もゆかりもない世界といえましょう。彼らは、宇宙SF以外のSFは認めないそうです。それもいいんでしょうがね。 |
さて、最後に登場した、伊藤典夫、大森望(聞き手)による「翻訳SFを語る」がすばらしい(皮肉ではありません、念のため)。 伊藤典夫さんは、ディレーニイの生霊に憑かれて、過去10年近く蟄居していました。その間、SFマガジンはSF界のリーダーから凋落し、ベストSFにはその間のSFがほとんど選ばれないという惨状(SFマガジン499号参照)。これは、何を隠そう、伊藤さんがいなかったせいです。翻訳は翻訳者の思い入れでいくらでもすばらしい傑作となる、先端の難解なSFばかりではなく、読みやすい中間領域の作家がいくらでも残されている、これを紹介すべきだ、伊藤さんの提言は続きます。俺が面白いSFこそが本当に面白いSFだ、という気迫の発言には、さすがの大森望もたじたじ。しかし、皮肉ではなく、こういった前向きさこそが、精神的不況を払拭する機会を提供するのでしょう。いやほんと、心洗われる思いです(皮肉ではありません、念のため)。 |
北村薫『ターン』(新潮社) 本書を読んでまっさきに思い浮かべたのは、フィニイの短編である。そのなかで主人公は過去の女性と手紙のやりとりをし、ついに恋に陥ちる。つまり、この手紙は、過去とのラヴ・レターなのだ。本書で描かれるのは、時間の輪に閉じ込められた女性が、そのなかからたった一本の電話で、リアルタイムの世界の男と、文字どおり結ばれる物語である。時間の輪というのは、筒井康隆の「しゃっくり」と全く同じアイデア。事故のショックで1日の長さの、繰り返す時間に閉じ込められてしまうわけだ。 昨年出た、同じ作者の『スキップ』は、一部のSFファンからアイデアの処理の仕方が許し難いと非難された。実のところ、本書でもその事情に変わりはない。あくまでも情緒的な解決がなされてしまう。それがアイデアの片鱗であるだけなら、フィニイのような軽ファンタジイとして許されたかもしれない。しかし、長編にするにはやはり長すぎる。まーこれも、SFファンだけの感想だろうけれど。 |
1997/11/30
前回のレポートに補足しておく。1点は他の京都フェスレポートで高野史緒さんの悪評が多いのは、対談の中でヤングアダルト蔑視ととれる表現があったため(ヤングアダルトならばいつでも書けたが、自分の志はもっと高かった云々)。さすがに野尻さんは直接そのことに言及していないし、喜多哲士の批判も、クラシック界に関する発言が嘘だというものだけだが。それから、宇宙開発に関する鼎談で、出席者全員が宇宙SFしか認めていないような書き方をしたけれど、水城さん、野尻さん両名ともそれほど狭量なファンではないとのこと。あれだけ短い時間では、なかなかウラまでは分からないものである。