『世界のSF文学総解説』(1978/80/81?/82?/84/86?/90?/91?/92?)に収録

イタロ・カルヴィーノ『マルコポーロの見えない都市』(河出書房新社)
Le Citta Invisibili,1972(米川良夫訳)

装幀:池田龍雄
 
(ハードカバー版1977年/文庫版2003年)

 ここに述べられる諸都市は、マルコ・ポーロが皇帝フビライ汗に語り聞かせる、派遣使として訪れた55の幻想的都市である。

 ザイラの街は、空間の寸法と、過去のいろいろな出来事とのあいだに、つくりあげられている。思い出から湧き上がる波で、海綿のようにこの都市はずぶずぶと濡れ、ふくれあがっている。けれども、ザイラは自身では何も語らず、街路を形成する線分のなかに、ただ思い出を秘めている。

 あらゆる町並み、あらゆる家々が記憶に刻まれる都市ツォーラ。しかし、できるだけ記憶しやすいよう、不動であるよう強いられ、ツォーラはいつしか消耗し、消失してしまう。今は、もう、どこにも存在しない。

 タマラは形象によりつくられている。人はタマラの都を訪れ、見物していると信じているものの、その実、あらゆる部分を定義する無数の名前を記録するばかり。この記号の下の、ほんとうの都市はどんなものなのか、人はわからないまま、タマラを去っていく。

 はじめのうち、汗とマルコ・ポーロの間に、正確な言葉のやりとりはない。マルコは、身ぶりや手ぶり、さまざまな品々を前に、何かの表象をあらわそうとする。
 二人の対話は、その二人の思考の中にある。二人が黙したまま、各々自問を繰り返そうとも、声高に意見を交わそうとも、そこに何の変わりもない。想像の中で、問答が続いている。
 「お前は、過去をふたたび生きるために旅しておるのか?」汗は問う――「お前は、未来を再発見するために旅しておるのか?」

 マウリリアで、旅人は古い絵葉書を見るようにすすめられる。絵の中には、過去の素朴で美しい街並みがある。いま、美しさは消え、そのかわり繁栄する都市がある。けれども、それは、昔のマウリリアと、風景も名前も同じの、別の街とが入れかわったからかもしれない。マウリリアの過去の神々が去り、異国の神々がここに棲みついている。

 ガラス玉の中に、その理想となったはずの都市の模型を収めたフェドーラ。街は模型をつくっている間にも、別のものとなって、昨日までのあり得べき未来は、ガラス玉の中の玩具にすぎなくなっている。そんな無数のガラス玉が、フェドーラには満ち溢れている。

 エウフェミアの街に、七ヵ国の交易物が集まってくる。しかし、ただ品物を売買するため、人々はここにやってきはしない。そこでは、誰かの言いだす一言一言が、物語が、身の上話が、つぎからつぎへ伝えられていく。エウフェミアの都市では、冬至、夏至、春分、秋分ごとに、思い出が商われる。

 やがて、マルコの話に言葉が入りはじめる。ただ、フビライ汗とマルコ・ポIロの意志の疎通に、言葉が本当に役立っているのかどうか、わからない。

 アルミッラには壁がなく、天井も、床さえもない。水道管が、建物のあるべきところを、縦横に走るだけ――栓やシャワーやサイフォンの、ジャングルだけがある。人が住みついたことがあるのか、住みつかぬ以前に見捨てられたのか。けれども、ここでは水精たちが、いつも沐浴する姿が見られる。長い髪を梳き、日の光を浴び、愉しげに歌をうたっている。

 オッタヴィアは蜘蛛の巣都市である。蛾々たる二つの山の間に、粗索や鎖や吊り橋がかけられ、そこに街がつくられている。下には、何百メートルの深さにわたって、空間があり、雲が流れている。

 2種類の神々が、レアンドラを守護している。家族と共に移り住む神ぺナーティと、家そのものに住む神ラーリ、彼らは、いつもお互い自慢し合い、不満の種を見つけては、夜中にひそひそと話し、言い返し、笑い合う。

 連続都市の物語がある。それは、どれもが一つの都市にとどまらず、連なり合っている。レーオニアの都市は、毎日毎日、自分を新しく作り変え、過去の自分の塵挨の中に埋没してしまう。どこまで歩いても、どこまで行っても、決して出られないチェチリアの市街。訪れる度に、同じ顔の人間が数を増して、ついには都市を覆い隠してしまう、プロコピアの街。ぺンテシレアは、どこからが市街で、どこからが郊外か、何度通ってもわからない。それが、連続都市である。

 道ゆく人誰もが、死んだ知人を思い起こさせるアデルマ。――そして、自分が誰かを思い出すように、また他の人々も、旅人に、死んだ友の顔を思い出すのである。

 エウドッシアでは、曲がりくねった露地、石段道、袋小路や貧民街が、どこまでも拡がっている。ここには、一枚の敷物が保存されている。まばゆいばかりの色彩の糸で織られた敷物。一見すれば、とてもエウドッシアとは思えないこの布に、都市のすべてが縫いこまれている。

 高原のはずれから、身を乗り出すと、イレーネの都市が見える。澄み切った大気のはるか彼方に、市街の燈火がうかがえる。しかし、その街に入ることはない。イレーネとは、入ることなく通り過ぎる都市で、一度入ってしまうと、それはもう、別の名前の都となる。

 フビライ汗は、一冊の地図帖を持っている。その中には、川や橋、宮殿の一つ一つ、あらゆる都市が収められている。いや、それ以上の大陸、海岸線が、まだ誰も見たことのない可能性の都市が、すべて描きこまれている。都市――砂に埋まり亡び去った都市、いつの日か存在するはずの都市、形のリストは無限につづいていく。

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 マルコ・ポーロとフビライといえば、あの「東方見聞録」が思い起こされるが、本書は歴史上の二人を登場させながら、その実、全く別の世界を描き出している。「見えない都市」の中で、さまざまな言葉で形づくられた「都市」のイメージは、現実にある街の一諸相であるかのようにも、お伽噺の夢であるかのようにも思える。

 作者カルヴィーノは「見えない都市とは、虚ろな物語である」と語ったという。事実この作品は、言葉という魔法で形成された盃のようである。そこに何を満たすか、何を見出すかは、ただ読者にゆだねられているのである。

 マルコ・ポーロはフビライに言う。「この2つの場所をへだてているのは、われらの瞼でございますが、そのいずれが内にあり、いずれが外にあるかは、だれにもわかりません」

(注:『世界のSF文学総解説』(自由国民社)は、SFの代表作を解説する目的で編纂されたものであるため、内容もレビューというより梗概紹介に近い。ワープロ以前の手書き原稿だったもの。この本は、84年以降も92年まで何度か改訂され、評者の原稿も載っているはずなのだが、印税方式ではなく原稿買切方式のため掲載誌を送ってこないので未確認【?印】のまま)