ニール・スティーブンスン『スノウ・クラッシュ』(アスキー出版局) 90年代の『ニューロマンサー』という惹き句の通り、本書に描かれるのは“いつもの”風景である。アメリカはフランチャイズ国家(都市国家)に分割され、治外法権がまかり通っている。主人公はピザの宅配(この世界ではマフィアが牛耳っており、地位の高い職業)をアルバイトにするハッカーだったが、ある日ハッカーの頭脳をもクラッシュさせてしまう、新種ウィルス「スノウ・クラッシュ」の存在を知る。 本家ギブソン『あいどる』(本書より後に出た本だが)でも、ほぼこれとよく似た雰囲気があった。本書はそれら類書のパロディでもあり、笑える設定に、これはSFならでは(古代シュメールの昔に“開発”されたプログラム)と思えるアイデアを組み合わせている。さすがに、その点は亜流ではない斬新さが伺われる。 |
小谷真理『ファンタジーの冒険』(筑摩書房) 9月に出た、例によって分かりやすい、小谷真理のファンタジー入門書。といっても、内容は児童ものファンタジーより、今日のSFに連なるアダルト・ファンタジー(古い言い方になります)系列を読み解いたもの。実際、ここで触れられた作品の多くは、現代でも十分共感を持って読めるものばかりなので、腐りはてたゴシックノベルに退屈することもない。ジョージ・マクドナルドからラヴクラフト、トールキン、ルイスを経て、アメリカのファンタジーブーム、スチーム・パンクまでの諸作は、入手も比較的容易だろう。難を言えば、近年の日本ファンタジーを語る部分がやはり駆け足過ぎて、膨大な中身の整理となっていない点ぐらいか。 |
ルーディ・ラッカー『時空ドーナツ』(早川書房) これがラッカーの書いた本でなかったら、どれだけの人が評価したかわからない。なんといっても、無限小に縮むと無限大になるなんて、(『火の鳥』とかにもあったけど)アイデアとしてシンプルすぎ、説得力を持たないじゃないですか。コンピュータ社会への革命物語も、それだけで賞賛できるほど出来がよくはない。とはいえ、これがラッカーの処女作である、という前提では、将来の全てが含まれるという意味で、興味深く読めるわけである。とはいえ、やっぱり数学的前提が分かるわけのない評者には、適当にしか理解はできませんが。 ところで、ラッカーのような作家は、梅原先生などどう評価するのだろうか。彼には、「敵は(歴代SF大賞作家のうち)、神林長平、大原まり子、野阿梓、征悟郎」という趣旨の発言があるが、おそらくサイバー・パンク風作風を批判したものなのであろう。しかし、一方神林らには奇想アイデア作家という面もあり、こちらも否定してしまうと、SFなどは全く成り立たなくなる。大原まり子を否定すると、ヴォクトまでが事実上否定されるのである。ラッカーはサイバー・パンクの源流ではあるが、同様なわけで、はてさて。 |
川端裕人『夏のロケット』(文藝春秋) サントリーミステリー大賞優秀賞。すでにいくつか評価も出ていて、キャラが立っていないとか、ロケットの考証に問題があるとか、SF味が感じられないとか、結構辛いものが多い。とはいえ、本書の表題はブラッドベリの「ロケットの夏」そのものであり、寒いオハイオの冬が、またたくまにロケットの熱気で夏に変じていくという、あの有名なシーンを創造の原点に置いていることも事実なのである。 本書のお話は、ロケット製造に明け暮れた高校のロケットクラブ同窓生が、ある日さまざまな思惑を抱いて、その夢を再現する物語である。立ちはだかるのは資金面や法律といった問題で、ハインラインの「月を売った男」を思わせる現実的な壁が描写される。ついにロケット打ち上げに至るシーンは、それなりに感涙ものといえる。実際、ロケットは国家の絡む組織科学(テポドンを見ても分かるように、人工衛星を打ち上げようとも、ロケットはミサイルと等価にしか見なされない。同様に日本も世界からは、ICBM及び核兵器潜在保有国と認識されている)ではなく、個人が関与するのに相応しい技術なのである。そこをどれだけ説得できるかが、本書の価値につながる。とはいえ、かつて打ち上げ花火の火薬を詰め込んで、ロケットの真似事を試みたような少年(評者もそうです)たちには、本書で書きたかったことはよく分かる。それを誰にでも納得させ得たかというと、押しが不足しているのが残念。 |
谷甲州『激突シベリア戦線(上下)』(中央公論社) おなじみ、谷甲州の1942シリーズ最新刊で、今回は「防空システム」がテーマ。例によって、非合理な圧勝バンザイものではなく、システム的戦略のありかたが描かれるという地味なお話。補完する形で戦闘シーンもあり、読んで退屈することはない。下巻の主眼は新生なった陸軍機動戦車部隊の戦いで、シベリア鉄道分断に日本側が成功するまでが書かれている。このところの数作同様、戦闘場面が主、歴史的改変が従という構成である、著者の作品としてはやや物足りなさを感じる。 ところで、関係ないですが、中公新書でも読売批判はできないのかしら。 |
宮部みゆき『クロスファイア』(光文社) 宮部みゆきの『ファイア・スターター』。今年はなぜかキングに挑戦する人が多い。本書も念力発火ができる女性を主人公に、法律で裁かれない犯罪者に対する一種の復讐譚と、それを追う中年女性刑事が描かれている。『スラン』以来の、超能力者であるがゆえの苦悩や迫害にも、日本の現実に即して触れられている。しかし、超能力者ものといっても、昨年のSF大賞作と比べて、本書が特にSF寄りであるわけではない(昔のSFマンガ程度にはSFであるといえるが)。むしろ、例の少年法などの絡みで、犯罪者を保護するよりも処刑せよ、という風潮に対する問題定義が軸になっている。そこに無限の粛正パワーを持つ主人公を置くことで、テーマを強調しているわけである。ただし、本書の展開は、謎の組織や別の超能力者まで出してきながら、その部分が未消化であり、雑誌連載であることの無理も感じられる。 |
J・スキップ&C・スペクター『死霊たちの宴』(東京創元社) 8月に出た本。ロメロ監督の「ゾンビの日」後日譚がテーマのゾンビ・アンソロジイである。ゾンビというテーマは、ホラーとしては実に適切なテーマであるが、SFとしては扱いに困る。生きながらの死者なんて、どうやって“生きて”いるのか、メカニズムがまともに(リアルに)解説できないからである。そのあたりを説明できていたのは、シルヴァーバーグの中編「我ら死者と共に生まれる」くらいではないか。この場合でも、死者は生物学的に再生されるのであって、生きながら死んでいるわけではない。そういうSF者の観点から読む限り、本書に描かれる各種ゾンビも、皮肉なコメディであるレス・ダニエルズ「おいしいところ」や、死者であるが故の奇怪な恋を描くマキャモン「わたしを食べて」あたりが面白く、まともなゾンビものはパターンが読めてしまうために退屈。 |
J・G・バラード『殺す』(東京創元社) 9月に出た本。エリートたちが住む超高級住宅街で、親たちが全員殺され、彼らの子供たちだけが忽然と姿を消す……。 バラードの場合、特にメディア分野での予言者としての評価はできるものの、それを描いた作品は、残念ながら往年のパワーを失っていることが多い。『太陽の帝国』のような“自伝”はそうでもなかったのですがね。本書も、書きようによってはスプラッタホラーにできたものを、あえてそうしなかったが故に迫力を欠く。バラードの予言は実に正確ではあるが、現実の事件自体が、その予言を上回ってしまう所為なのかもしれない。 |