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アルフレッド・ベスターの名前を知らないSFファンはいない。いやもちろん知らない人も(実際には)いるだろうが、そういう形容がふさわしい2つの傑作長編を残した作家なのだ。第1回ヒューゴー賞受賞作『分解された男』(1953)と、特にわが国では人気の高い『虎よ、虎よ!』(1956)である。しかし、結局ベスターの名を知らしめたこの2作を除けば、彼とSF界との関わりはさほど深くはない。作家活動の大半はコミック(スーパーマン、バットマン、キャプテン・マーベルなど)やラジオ(チャーリー・チャンやザ・シャドウ)/テレビドラマ(Tom Corbett: Space Cadet、これはハインライン『栄光のスペース・アカデミー』(1948)が原作)の脚本作家、一般雑誌の編集者等で占められているからだ。その合間の産物が、先の2長編や、短編集『世界のもうひとつの顔』(『ピー・アイ・マン』1964)などである。一般誌を退いた後に出した、長編『コンピュータ・コネクション』(1975)やいくつかの長編は、注目を集めることなく忘れられている。ということから、ベスターのSFで読むべきものは、1940から50年代に限定されるといってよいだろう。本書は、その時代の短編を(短編集の枠組みにこだわらずに)再編集したもの。
本書は既訳作品が多いためか、ベストセレクションの意味合いが強い。殺人、暴力といったテーマ(1、2)、最終戦争をモチーフにしながら、今でも新鮮な切り口を見せる(4、5)はベスター的な作品だ。6は、まるで子供のような(頭のいかれた)大人の男女を、無人のニューヨークを舞台に描いたもの。8はファンタジイ誌「アンノウン」(SF専門誌「アスタウンディング」の姉妹誌にあたる)に掲載された関係で、悪魔との契約のスタイルだが、「願望の論理的な帰結」としておぞましい姿と化す主人公たちが執拗に描かれている。
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グレッグ・イーガン待望の新訳長編。万物理論とは、万物の法則を統べる基本法則であり、物理的現象の基底をなすものである。ただし、本書の原題はDistressとあり、全世界に蔓延しつつある原因不明の流行病を指す。この2つは一体何が関係するのか。 主人公はビデオジャーナリスト(この時代では、番組そのものをフィニッシュして、放送サイトに提供するノンフィクション作家のような役割を担う)。21世紀半ば、遺伝子情報は大企業が寡占している。さまざまな遺伝子操作の可能性は奇怪な事件や人物を生み出していた。そんな生命を弄ぶ取材に疲れた主人公は、物理学会で画期的な理論の発表がされることを知る。「万物理論」は宇宙創造を説明し、物理の根本を説明できるという。学会は、太平洋に浮かぶナノテクで作られた、いかなる国家にも属さない人工島ステートレスで行われる。そこにはさまざまな反科学団体も押しかけ、神に成り代る科学の傲慢さを批判している。しかし、これは浮世離れした単なる「理論」研究であるはずだった…。 本書には3つの山場がある。21世紀後半の遺伝子産業社会を描き出した第1部、(前者とも関係する)無政府主義ステートレスの社会と万物理論を説明する第2部、島を巡る争いと理論が導き出す「驚くべき結末」を描く第3部である。これまで翻訳された2長編に比べると物語の流れは(アイデアの関連性も)明解になっており、1千枚を超える大作ながら読みやすい。まあしかし、本書のキモは、やはり「驚くべき結末」を構成する奇想アイデアであり、いかにも本当らしい理論的説明にあるだろう。考えてみれば、このアイデア自体が疑似科学そのものを思わせる (誤解を避けるため、反科学の立場は本書で否定的に描かれている)。それを、客観的な立脚点で描ききったところがSF作家イーガンの際立った才能といえる。
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70年代伝説の傑作第2弾。イアン・ワトスンの公式処女長編に相当する(非公式版は下記)。 アマゾンの奥地、巨大なダム工事で水没しようとする密林に、特殊な話法ゼマホア語を持つ未開の種族が存在する。孤児たちを集め、一般人と隔絶した環境で、レイモン・ルーセル『新・アフリカの印象』を思わせる言語(多重入れ子構造、埋め込み=エンベディングを推し進めた文法を持つ)を教える研究施設がある。そして、異星人の宇宙船がネヴァダ砂漠に着陸し、地球人と知識の取引を申し出る。彼らが興味を引く知識とは、現実を超越する言語そのものにあった…。 “言語”をアイデアにしたため、当初から難解と評判だった作品である(そのため伝説と化した)。しかし翻訳された本書自体は、それほど難しいお話ではない。上記3つのアイデアが交錯し、まとまりのない印象を与えるものの、埋め込み言語(言語によって、世界が変容可能)という基本テーマは、類書にない新しい切り口といえる。 特に初期作(『ヨナ・キット』、『マーシャン・インカ』)がまったく入手できない現状では、本書の存在自体が貴重だろう。 それにしても、訳者あとがきで「本書のアイデアは当時の知識人でもてはやされた根拠のない俗説がベース、ワトスンの初期作はみんな同じ展開で薄っぺら、小説がへたくそ、近作は旨くなったがアイデアがだめ、でもその点本書には熱意があったよね」と書くのは、いかにも山形流であるがちょっとどうか。
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第10回電撃小説大賞(2003)受賞作家の、受賞後第2作が本書。大森望と同郷の高知出身、現在は関西在住の主婦。 2件の航空機事故が起こる。高知沖高度2万メートル、通常の航空機では到達できない高高度の空、そこに達した民間機と自衛隊機の2機は、「何か」に衝突したのである。こんな高空に何があるのか。民間機の事故調査委員会に所属する主人公と、自衛官の女性パイロットは、そこで未知の生命体と遭遇する。 本書は、ある種のコンタクトもの(たとえば、上記『エンベディング』)のようにスタートする。しかし、その生命体には相互理解可能な知性があり、人間の考えをすぐに学びとる。形態はまったく異るのに大きなギャップはない。人間とのコミュニケーションの手段(携帯電話の電波)も持っている。お話は、半ばから父を事故で亡くした2人の子供(高校生)と、生命体との私的な関わりに焦点があてられる。人間側の攻撃に端を発した抗争事件でも、ありがちな異種文明との衝突には至らず、“心の病”が大きな主題になる。 さて、本書で目立つのはまずハードカバーの外観だろう。約900枚という大作、分量がこの半分で文庫が一般的なライトノベルと一線を劃したスタイルは、出版社側の意欲を感じさせるものだ。お喋りで軽薄そうだが実はしっかりしている男性調査官と、男社会の中で突っ張って生きる女性自衛官という登場人物は、ライトノベルのスタイルを踏襲しているが、高知方言の少女や老人のキャラクタは目新しい。またコンタクトテーマを、極めて私的な心の病テーマに収斂させたところを、読者がどう評価するかがポイントだろう。 |