筒井邸1973

 筆者が筒井康隆さんの自宅を訪問したのは、1973年8月19日(注1)のことである。筒井さんが東京から神戸の垂水に転居したのは、72年(昭和47年)の4月。まだ真新しい建物の、広い2階の応接間に通されたことを記憶している。神戸は急坂が多い街で、筒井邸も高台にある。明石海峡が望める明るい部屋だった。
 筆者が読書メモ代わりにしていた手帳を繰ると、その1ヶ月前には、眉村卓さんの仕事場を初訪問している(眉村さんは、自宅の新築前、溢れた本の収容場所を兼ねて、別のマンションを借りていた)。当時、われわれから見て一流作家と思える人々でも、年齢的には40歳前後(筒井、眉村39歳、小松左京42歳)であり、作家とファンの距離はさほど遠いものではなかった。まだ互いに仲間と思える年齢差だったのである。これはしかし、当時のSF界特有の事情であり、部外者には理解できないかも知れない。関係の近さは、摩擦を生む原因にもなるのだが。
 8月19日に集まったメンバーは、以下の13名である(名簿順)。

  • 筒井康隆
  • 小笠原成彦(1)
  • 岡本俊弥(2)
  • 小田根章(1)
  • 加藤孝(3)
  • 北国幸一(4)
  • 角伸一郎(2)
  • 藤井光(3)
  • 真木俊吉(2)
  • 南澤俊直(3)
  • 山田吉昭(1)
  • 山本雄二郎(4)
  • 山本義弘(1)

名前だけでは分かりにくいので、簡単に分類してみると、
 (1)は大阪を中心としたファングループで、SFフェスティバル等の実績があったひとたち。74年のMIYACONでも中心的存在だった。(2)は地元、神戸大学SF研究会(ちなみに、このうち1人は大野万紀、1人は水鏡子)。(3)は地元神戸のファングループ「ローン・ウルフの会」メンバー。(4)は社会人の一般ファンだが、山本雄二郎氏は元中央大学SF研(かつ元「フォーカス産業」(注2))出身だった。12名中、社会人は3名のみ、学生も10代の若いメンバーだった。

 彼らは、そのままネオ・ヌルの同人となり、75年に開催される日本SF大会への立候補を表明することになる。筒井康隆さん自身が決意を記した文書を、「NULL復刊1号」の冒頭に掲載しているので抜粋してみる。

―(前略)―日本SF大会を神戸でひらくことにも、ぼくはたいへん乗り気である。十年以上前に旧「NULL」が主催した第3回日本SF大会、つまりDAICON・Tは、ぼく自身の力量不足、中でも統率力のなさなどによって、決して満足のできるものではなかった。―(中略)―だからこそ神戸での大会開催が決定すれば、是が非でも成功させたい。個人的怨念を晴らすためにも、ぼくはあらゆる協力を惜しまないつもりである。本当に、家屋敷を売りとばしてもよい覚悟なのである。

 もう少し背景を説明しておいたほうがいいだろう。
 まず、筒井さんがSF大会を主催することに執念を持っていたのは事実である。しかし、大会は既に12回の歴史があり、開催するには一定の手続きが必要になる。
 (1)大会を運営実行していくための人手とノウハウの確保
 当日まで大会を実質的に切り盛りする事務局担当や、平日に活動できる雑務担当もいる。
 (2)大会に立候補するための主催団体の設立
 個人で大会を主催してはいけないというルールはないが、母体となる団体がないと不安視される。
 (3)開催先決定までの正規手続きの遂行
 大会をやりたいというだけでは認められず、対抗馬がいれば投票になる。それらをファングループ内で調整しなければならない。既に、74年の大会は京都と決まっていた。しかし、大阪(71)、名古屋(72)、北海道(73)、京都と、前回の東京大会(1970 TOKON5 実行委員長・伊藤典夫)以来4年間も地方大会が続いていたため、東京開催説が有力だったのである。

TERRA・CON2プログラムブック(4分割で郵送されたプログレスを綴じると冊子になる)。TERRA・CONは文字通りお寺を会場にしていた。宿泊込みの料金は格安ながら、施設は推して知るべし。

神戸のタウン誌「神戸っ子」1973年8月号に紹介された「ローン・ウルフの会」(一匹狼の群れ、という矛盾した名称だった)。メンバーの大半は中・高校生。

 そこで、地元のファンや過去(大会などで)連絡のあった関係者などに声がかけられた。神戸大のグループは呼ばれたわけではない。地元タウン誌(注3)に紹介された「ローン・ウルフの会」が筒井さんの目にとまり、そのオマケでついていっただけなので、考えてみれば幸運だった。大阪グループは、未経験者の集まりである地元と違い、参加者150名のSFフェスティバルTERRA・CON2(73年5月)を企画/実行してきたベテランであった。


注1:その年、筆者は神戸大学に入学し、ようやくオープンなSF活動をはじめたばかりだった。73年といえば、金大中拉致事件や石油ショック(石油価格の高騰と供給不足によるモノ不足。特に、紙不足が深刻になる)が起り、『日本沈没』がベストセラーだった。世の中は不況に突入しつつあった。とはいえ、新入生の筆者にとって、さほどの影響はない(ただし、紙不足は、後のファン出版や各種単行本の入手に影を落とした)。もうひとつ付け加えておくと、この頃は筒井さんの『腹立ち半分日記』にも記載のない時期に相当する(「あらえさっさの時代」(68年4月まで)と「ウサギと銀座のイヌ」(76年4月から)の間)。

角川文庫版(82年6月):カバー:山藤章二角川文庫版(82年6月) カバー:山藤章二

注2:『錬金術師の夢』などに、反「宇宙塵」を目指して荒巻義雄の評論を掲載し、物議をかもしたこともある。『SF論争史』(勁草書房)年表27ページ参照。

注3:同号には筒井康隆、小松左京の対談も掲載されていた。ある意味で、SF特集号だったのである。ちなみに、同誌は廃刊されており、現在はもうない。

 

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