復刊NULL

 ネオ・ヌル結成後半年、1974年の1月にNULL「復刊第1号」が発行された。採算を度外視した活版印刷は旧NULLからの伝統、部数1000部は破格だった(しかも売り切れた)。表紙はシンプルだが、もともと旧NULLもタイトルロゴ以外、原色1色(例えば赤1色)で文字なし等、シンプルさがデザインとなっていた。この号は、筒井さん自らが編集、レイアウトしたものである(注1)

復刊NULL1号(1974年1月30日刊)

「復刊第1号」の冒頭、「NULL復刊のことば」から抜粋してみる。

 神戸を中心とした関西地方の若いファンたちが、一日ぼくの家に集って話しているうちに、なんとなく、また「NULL」を復刊しようではないかという話になってしまった。―(中略)―旧「NULL」も、ファンジンではなく、創作主体の、いわば文芸同人誌であったから、新「NULL」にもその性格をいくぶんかあたえ、作品の添削、批評を雑誌の特色にしようではないかということに話が決まったのである。

 新NULLは、もともと大会PR誌の位置付けだったものだ。しかし、誌名がNULLに決まり、復刊第1号を出す時点までに、新装NULLの目玉となる企画「応募作品の添削と批評」が出来上がっていた。これは、もともとのNULLが持つ創作誌的な性格が、そのネーム・バリューとともに引き継がれた結果であり、SF大会とは別に、独立した命を持っていくことになる(注2)

 こうして、NULLはスタートしたのだが、問題になったのは以降の編集者である。筒井さん自身は多忙のため、編集作業にまで手をかけていられない。最年長の山本義弘さん(といっても20代だ)は、既に事務局長をやっている…、ということで多少なりとも活版印刷が分かる(といっても、専門書を読んでいたというだけで、経験などない)筆者に、編集の仕事が与えられることになる。

 編集というのは、単なる作業ではない。作品を並べる順番、レイアウト、活字の大きさ(注3)等など、あらゆることに配慮ができないと不可能な仕事である。掲載される側、読者ともに、まず外観で内容の軽重を判断するからである。その頃の筆者(20歳前後)は、妙にとんがったところがあって、文章にも若書き特有のとげとげしさがあった。そんな人間に編集を任せたというのも不思議な話であるけれど、筒井さん自身の体験もあってか、メンバーの個性を尊重してくれた結果だと思っている。少なくとも、文章の趣旨を変えさせられたことは一度もない。

 ということはさておき、当時のNULLからSHINCON決定に至る経緯を抜き出していこう。

NULL(No.2)1974年5月刊、この号には堀晃さんの「最後の接触」が掲載された。堀さんは長らく創作を発表していなかったが、これを機会に活動を再開する。

  1. 73年8月:NULLの復刊と、大会立候補まで決定。

  2. 73年10月:ネオ・ヌルというグループ名称が決まる。また、大会は当時主流だった全員合宿制をとらない方向で進めることになる。これは、合宿を伴うと参加人数が限られてしまうからである(大規模宿泊施設もほとんどなかった)。

  3. 73年11月:横浜で大会開催を進めていたグループから、横浜→フェリー→神戸というスタイルの提案を受ける。内容は従来の大会を継承、規模は100名前後。これは神戸側の意図と異なるため、事実上拒否される(その後、横浜は諸事情もあって立候補を取りやめた。大会自体は77年に実現)。この時点で、神戸大会がショー的、かつ1000人規模の大会と明確化された。同月、会場を新築間もない神戸文化ホールとすることに内定。

  4. 74年1月:復刊第1号刊行。

  5. 74年3月:会場の下見。

  6. 74年5月:2号刊行

  7. 74年6月:NULL会員のための第1回例会を実施。神戸文化ホール・中ホール(定員910名)の予約を実施し、会場と日時を確定(注4)

  8. 74年7月:打ち合わせ場所を文化ホール会議室に移し、企画立案に着手。ここで、劇団欅(当時:現在の劇団昴に相当)による「スタア」、桂米朝による「地獄八景亡者戯」が決定。作家クラブによる演劇も提案されたが、これは最終的には形を変えた。


注1:当時の作家でもファンジン発行経験があったのは、筒井さんくらいかもしれない。多くの作家は「宇宙塵」の出身だが、自分で編集したわけではないからだ。筒井さんの場合、「NULL」以外に「SF新聞」を発行した。これも活版で新聞形式、プロの書き手がSF論を戦わすなどの趣向があった。SHINCON当時はまだ売れ残っていて、ネオ・ヌル例会などで販売していた。

注2:NULLの中で、何度もSHINCONと冊子NULLとは独立している旨、言及している。筆者はNULLが単なるPR誌ではなく、文芸誌として自立したものだといいたかったわけである。

注3:活版ではポイントや号でレイアウト、罫線の位置指定をする。これが写植となると級(0.25ミリ)となり、タイプ印刷は独特の送りピッチ指定が必要、写真には網線の%指定をする、といったこまごました内容。今ならば、パソコン上で同様の指定が(半自動で)できる。

注4:公共の会場は、今でもそうなのだが、予約は6ヶ月〜1年前での先着順(または抽選)となる。全国大会である等、重要性のアピールを事前にしておかないと、期日と会場を決定することは一般的には困難である(特に全館貸切の場合)。

 

Next ] Back to Home ] Back to Index ] Back ]