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SF大会はたいてい夏、しかも8月に開催される。 なぜそうなっていったのか。草創期社会人が主体だった大会は、しかし、毎年開催するとなれば、時間に余裕のある学生を使わなければ順調には継続できない。すると、学生で一番時間がある夏休みの季節がよい。これが、真相かもしれない。というわけで、汗やら青春やらに関係のない、オタク的SFファンにも、SF大会だけは、なぜか暑い夏(汗)と学生時代(青春)の象徴と思える。 特に主催者にとっては。 ここに書かれるのは、主に筆者とSF大会のかかわりについてのお話である。その多くは私的なものであり、「SF大会論」などではない。とはいえ、内容のいくつかは、日本SF史の歴史的な背景をなすものだ(注)。 SFファン、あるいはSF関係者と大会との関係は深い。 たとえば、1978年のリゾート地箱根の芦ノ湖で開催されたASHINOCONでは、当時大阪芸人と呼ばれた武田(現・GAINAX 統括本部長)岡田(現・オタク文化評論家)コンビが、スター・ウォーズネタの芸を披露して大ウケを取り、後のゼネプロを築く基礎となった(同じ大会でヴィン・サーガのコスプレをして最年少参加者と紹介された女子高生が、今の筆者のヨメとなったが、まあこれは関係ない)。そのようなエピソードを掘り起こすこともできる。
今回、筆者は2つの大会について書いてみる。1つは1975年に開催された神戸大会(第14回)SHINCONであり、もう1つは1986年に開催された大阪大会(第25回)DAICON5についてである。SHINCONは、筒井康隆が主催し、ショー的要素を多く取り入れた大会だった。当時のプロ作家は、第一線作家でもまだ40才前後であり、SF大会を通じてファンと交流することに意義を感じていた。また、DAICON5は昭和最後の都市型大会であり、分科会形式での大会としては当時最大級のものである。どちらにも、筆者はそれなりに関与してきた。「実録」として書くこともできる。ただ、それよりも、いかに大会ができあがったのかという、ノウハウを交えた内容となるだろう。現在でも、応用可能な部分も少なからず(多からず)ある。 注:本内容には当時の関係者が実名で登場します。しかし、記載された発言や行動は、すべて筆者の主観的な記憶に基づいたものです。従って、本文中の内容は、あくまでも筆者の文責の範囲内のものであり、厳密な意味での事実とは相違するものであることを、予めお断りしておきます。 誤り等のご指摘はこちらまで。ご意見はなるべく取り入れさせていただきます |