大会まで 1975 | |
「神戸っ子」1975年8月号:SHINCON特集号 ネオ・ヌル同人による座談会、筒井康隆「開会の辞」、眉村卓「神戸大会に寄せて」(眉村さんは、神戸のラジオ関西(現在のAM神戸)に番組を持っていた)等が掲載された。 |
「神戸っ子」掲載の筒井さんによる「開会の辞」は、あまり知られていないので、簡単に紹介してみよう。 ―(DAICONの失敗や、文庫本ブームによる“あぶく銭”の還元を大会開催の理由に挙げた後)―3つ目の理由は、無所属ファン、個人ファン、中・老年ファン本位の催しをやろうと思ったからである。今までのSF大会は、(中略)催しの内容もマニア向きになり、どうしても仲間うちの集まりという性格が強く出てしまうため、どこのクラブにも所属していず、活動もしていない孤立したファン、中・老年ファンが参加しにくかった。(中略)孤立したファンのための大会をやるべきではないか、(中略)そこで神戸大会略称SHINCONでは、徹底してショー形式で押しまくり、あまりSFに詳しくないひとでも楽しめるようなものにするつもりである。― 八橋一郎『評伝 筒井康隆』(新潮社)等を読んでも、SFファン筒井康隆という部分はほとんど見えてこない。そのため、なぜ筒井さんが大会をやろうとしたのかが分からない。筒井康隆論自体は、SF以外の視点で論じる方が、むしろ幅広いだろう。しかし、ことSHINCONに限ってはSFを外すわけにはいかない。筒井さんはSFファンであるが故に、SF大会を主催したのだ(少なくとも、SFファンダム以外では、何の名誉にもならない)。 とはいえ、上記コンセプトに則ったプログラムが確定したのが75年3月、後に有名になったメインテーマ「SFの浸透と拡散」が決定したのは、大会直前のことであった。企画の大半は筒井さんの人脈から派生したもので、南山宏(森優)によるUFO講演、山下洋輔によるジャズが加わった(注1)。SFの周辺、SFと非SFの間、小説と非小説の間という結果から、逆にテーマが浮かび上がったのである。まあしかし、SF大会のテーマの決まり方は、概ねこのような過程を辿ることが多い。 大会のプログラムも決まった。社会人の参加に配慮して、開始は土曜日の午後(週休2日の普及以前だった)。ジャズ、演劇、パネル・ディスカッション等が出演者の関係で2日目となったため、1日目に落語、映画以外の目玉としてUFO講演がセットされた。 筒井さんの名前があるのだから、黙っていても参加者が集まるだろうと思われたが、現実は甘くない。74年の暮れまでの予約申し込みは100名を切っており、春までに200名、大会直前でも500名を突破するのがやっとと予想された。大会やSF関係の催しで宣伝するだけでは、そもそも周知できる人数が少ないのだ。当日参加者を400名も見込むのは、あまりにリスクが高すぎた。(注2) そこで、参加を募るために、各種媒体を積極的に利用することになる。上記神戸っ子を初め、直前の1週間前には毎日新聞と地元神戸新聞にも記事が出た。しかし、予約者数は大会が近づくにつれ増大し、結局700名余に達していた(注3)。新聞記事が出ることで、逆に定員オーバー(入場制限)の可能性も高くなってきた。 神戸新聞75年8月16日(夕刊)紙面:地元紙だが、兵庫県一円に宅配されており、部数100万部近くになる。ジャズ、落語(怪談)、UFOという不思議なとりあわせが面白がられた。
宿泊施設も問題だった。安く、多人数が泊まれる施設が神戸にはなかった。当初予定した国民宿舎は先約があり(夏の高校野球シーズンであったことも影響していた。高校野球の応援団も、安い団体旅館に泊まったのである)、旅館組合を通じて、何ヶ所かの施設をバラバラに確保するのがやっとだった。 当時の旅館名を列記すると、>桔梗屋(50名)大森旅館(50名)神戸四州園(50名)旅館七福(150名)の4ヶ所で計300名。名称を見ても、大衆的な雰囲気がある。宿泊費は3000円程度。900名の大会で300名は少ないようだが、予約者の状況から判断した結果だった(注4)。 大会の開催が決まるまでに、当初委員長に内定していた藤井光が事情あって交代し、「ローン・ウルフの会」を継承した「サイコ・ハウス」代表の清水宏祐が実行委員長に就任した。彼は最年少で、経験もなかったが、大会の委員長らしい恰幅があった。大会事務局長には当初メンバーの南澤俊直があたった。 神戸新聞75年8月19日(朝刊):清水実行委員長が時の人扱いで掲載されていた。この欄は、全国的な有名人を取り上げるのが通例。 |
神戸大会の場合、企画の大半は外部にお願いする形態である。そのため、直前までは、
という体制で進んでいた(注5)。企画や会場関係は山本義弘が取り仕切っていた。即売はベテランの山田吉昭、宿泊は山本雄二郎、また、当日の場内整理や宿泊施設担当者として、計50名のスタッフが呼び集められた(MIYACONを経験した大阪グループ、地元グループ、ネオ・ヌル会員ら)。会場の形がコンパクトだったせいか、参加人数に比べれば、それほど多数とはいえない。かくして、8月23日を迎える。 文化ホール(中ホール)見取り図:中央が客席、その手前(下)がホールでここがファンジン売り場。別の会議室に古書即売会場が設けられていた。奥(上)にあるのが舞台で、客席と同じくらい広い。これは演劇向けのホールなのである。 |
注1:企画のための人脈は重要である。SHINCONの場合は、その主催者と企画関係の人脈、宣伝手段などが筒井さんに集中していたために、シンプルにまとまっていた。しかし、これらは大会の必須要素である。ふつうは複数の個人にお願いする形になるため、さらに複雑だ。もともとSF大会の企画では、ショーだといっても通常の出演料が払えるわけではない。それを承知でお願いできるだけの人間関係が重要なのである。 注2:当日参加費は(1日につき)950円。プログラムブックは確か200円程度で別売した。非常に安く感じられるが、当時の大会参加費は概ねこのレベルだった。「スタア」の一般向け公演でさえ2000円で見られた(三百人劇場公演)。25年前のことなのだ。それでも、SHINCONの場合は、プログラム内容に比べてコスト・パフォーマンス抜群といえる。 注3:SFファンの出足は遅いのである(逆にコミケ系ファンの出足は早い)。 注4:今でこそ、全国どこの大会でも大都市圏(特に東京圏)からの参加者が多数を占める。昔は、大会の参加者は基本的に地元(日帰り圏内)が主流だった。 注5:規模はともかく、形態としては、今日の大会と同じだろう。 |
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