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8月22/23日

 8月22日、会場準備とリハーサルが行われた。ここで起こったのが、有名な「嵐を呼ぶ大会」騒動だった(注1)。その日夜半から23日にかけて、台風6号が神戸に上陸、交通機関がずたずたに寸断されたのである。作家のゲストも大変だが、深刻なのは、劇団の俳優が大丈夫かということだった。機材の吊り込み(演劇では背景や部屋の壁などを、舞台の上に吊り下げて置く)と、『スタア』のリハーサルが予定されていたからである。機材はトラックでなんとか無事に到着、団員も新幹線からバスに切り替えて来られると分かった(しかし、リハーサル自体はできなかった)。筒井さんのジャズセッション用ドラムセットも、30分ですむ距離を、5時間かけて運ばれてきた(注2)。それでも、準備は進む。今回の大会では、星雲賞もショー化された(注3)。受賞者は紙製の幕の後ろに立ち、ライトで背後から照らされる。名前が呼ばれると幕を破って登場するのだ。リハーサルでは、山田正紀さん自らが立ち会った(『神狩り』で受賞)。

SHINCON公式プログラムブック(A4版):内容は豪華だったが、印刷があまりよくなかった。

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   大会初日 1975年8月23日(土曜)

bullet  13:00 開会宣言(清水委員長/挨拶・筒井康隆)
「週刊小説」1975年9月19日号のグラビアで報道された大会の様子(開会挨拶)。 週刊小説はグラビア用にプロのカメラマンを派遣して、本格的に撮影した。

(写真中)同上:開場入口付近(筒井さんと委員長が来場者に挨拶しているところ)

(写真右)同上:ファンジン売り場(慶応大学SF研と読める)
bullet  13:45 講演「UFOよもやま話」(南山宏)
bullet  14:45 来賓挨拶(田中光二/高斎正/豊田有常/眉村卓)
            (休憩:オークション展示)
bullet  15:00 落語「地獄八景亡者戯」(桂米朝/対談・小松左京)
桂米朝・小松左京対談:NULL(No6)より
bullet  16:30 映画「オー!ラッキー・マン」(ワーナーブラザーズ1973)(注4)

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 初日は、まだ台風の影響が残っていた。新幹線は動かず、河野典生のように横浜から来られないゲスト(注5)や、予約しながら断念した参加者も出た。しかし、台風一過の朝、参加者は列を作って開場を待っていた。大会史上、待ち行列ができたのは、これが初めてだったといわれる。多くのゲストも、タクシーをチャーターしてまで神戸を目指した。

 初日は、幸い定員を超えるまでには至らなかった。スタッフの対応も、基本的に混雑整理に重点が置かれた。ファンジン売り場は活況。狭いロビーではあったが、並べられたファンジン類は次々(まさしく“飛ぶように”)売れていった(注6)。大会参加者数が違えば、雰囲気もこれだけ異なるという実感ができた。

 オープニングは007のテーマ(注7)に乗って登場した清水委員長の開会宣言(「ただいまから第14回日本SF大会を開催します」の一言だけ)、筒井さんによる開会挨拶が続く。企画スタートは南山宏講演「UFOよもやま話」で、超常現象研究家としての薀蓄を傾け、時間をオーバーして終了(これは後のレポート筆禍事件につながる)。UFOネタはいまだに古びていないともいえるが、後続の大会ではあまり例を見ない。一方、桂米朝による落語口演は、SF大会史上初登場ながら好評を得、今に至るまで常設ネタとして継続されている。小松左京、堀晃、かんべむさしといった関西作家と落語家の親交もあって、SFと不可分のネタといえるだろう。当日の「地獄八景」はSF大会版特別篇であった。これらの詳細は、上記の公式プログラムブックとNULL6号の大会レポートに細大漏らさず書かれている(注8)

 その日の夜、宿泊所での公式プログラムはなかった。しかし、スタッフによる自主運営の形で、各宿舎単位の企画(といっても自己紹介大会など)は実施された。古手のファンらは、各自で飲み会(茶話会)を実施、それを参加者が聞いているといった、旧来大会の雰囲気もいくらかあったようである。参加者が不特定多数の大会では、トラブルや、慣れない酒で倒れたりしないかを常に見ていなければならない。神経戦のようなもの(いつどこで起こるか予想ができない)なので、スタッフの疲れも大きい。

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注1:この呼称を最初に使ったのは、大会の挨拶に立った眉村卓さんだった。

注2:阪神大震災でも分かったことだが、神戸の市街地に至る道路は数も交通量も限られる。大量輸送機関(鉄道)が不通になれば、たちまち渋滞する。

注3:同じ古手のファンでも、関西の人間は、筒井さんがショー形式で大会をやることにこだわりは少なかった。星雲賞の演出も打ち合わせ時に出てきたもの。また、参加者サービスを徹底するために、各テーマごとの司会や、落語のお茶子まで筒井康隆尽くしで演出することが決められた。

注4:映画をプロモートしたのは、関西大学SF研で映画サークルもやっていた坂本淳彦だった。もともと「ハウザーの記憶」を上映する方向で進んでいたが、興行権や、配給期間の制限から不可能となっていた。当時も(今もか)自主上映会の規制は、大都市(といっても東京と大阪だけ)では目立たないが、上映館の少ない地方ほど(少ない収益を守るため)厳しい。この映画は、内容がスラップスティック風であるためか、ゲストにも好評だった。「選んだのは筒井さんですか」と聞く人もいた。大会上映映画は、その後、映画会社のアニメーション・プロモートなど、試写会的なものまでできるようになった。これはしかし、興行権と関係のない、製作会社の宣伝だから可能になったものである。

注5:SF作家クラブや編集者らは招待ゲストとなっていた。宿舎(現在は市の公共施設となっている舞子ビラ)も別途用意された。ここに、ファンがかってに紛れ込み(ゲストの誰かが連れて行ったらしい)高級懐石料理を食べてしまうトラブルがあった。仲居の質も悪く、小松さんを見て「本物より写真のほうが男前」などと言って顰蹙を買った。悪酔いした編集者もあらわれ、ホスト役の筒井さんは始末に追われた。

注6:後のコミケの前兆現象(かも)。

注7:大会音楽は、大野万紀がクリムゾンやピンク・フロイドなどプログレ系ロックから編纂した。中には「アンタレス星人の歌」もあった。

注8:このレポートは筆者が当時の編集力を駆使して作成した。とはいえ、今さら入手できるものではないでしょう。全文収録したいが、著作権上無理(かんべ、堀、筒井さんらの原稿を含む)。

 

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