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8月24日

 翌8月24日、会場前は人であふれていた。大ホールを含む中央のエントランスいっぱいに列ができていた。入場者は定員に近づき、遂にオーバー。入場制限が始まった。SF大会が来場者を断るという、前代未聞の事態になった。この状況は朝から夕方まで絶え間なく続き、断りつづけた事務局長の心労は極地に達した。ただし、最後の「スタア」まで練った一部の人は、タダで入場できたはずである(この入場者数は、公式にはカウントされていません)。

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大会2日目 1975年8月24日(日曜)

bullet  10:00 オークション(岡本安司/青木治道)
bullet  11:00 星雲賞授賞式(ファングループ連合会議)
bullet  11:30 次年度SF大会開催地発表
bullet  11:45 ジャズ(山下洋輔+筒井康隆)




山下洋輔(右)+筒井康隆:NULL(No6)より
bullet  12:30 古書即売(別会場)
bullet  13:30 来賓挨拶(矢野徹/荒巻義雄/平井和正/半村良/小松左京/星新一)
bullet  14:00 パネル討論会「SFの浸透と拡散」
       (荒巻義雄/高斎正/小松左京/田中光二/半村良/平井和正/星新一/眉村卓/矢野徹/司会・筒井康隆)







パネルディスカッション風景(予定ゲストのうち河野典生/石川喬司が台風の影響もあって欠席):NULL(No6)より
bullet  15:00 サイン会(ロビー)
bullet  15:30 劇「スタア」(劇団欅)
        (挨拶・福田恆存)
bullet           閉会宣言(筒井康隆)

 朝から始まったオークションは大会定番であった他、「スタア」生原稿がかかったため盛り上がった。担当した岡本安司(当時)、青木治道(現在の青心社社長)はこの分野のベテランで、オークションを1つの芸として見せることができた。他は、「別冊宝石」(3冊揃)、香山滋「ソロモンの桃」他数点(復刊前のため入手困難だったもの)、「元々社SFシリーズ」(全18巻)、「小松左京・全作品」、「フランク・リード・ライブラリ」等30数点だった。

 次年度大会が発表された(一言「筒井康隆に負けてたまるか!」)。野田昌宏実行委員長のTOKON6である(注1)

 ジャズはもともと山下洋輔ソロということで公表されており、筒井さんの競演は秘密だった(プログラムにも書かれていない)。幕が上がって、ピアノ演奏が始まっているのに、ドラムには誰もいない。やがて演奏が佳境に入ったところで、拍手とともに筒井さんが登場、競演をはじめるのだが、これは座興などではなかった。まさに死に物狂いのすさまじい演奏であり、観客の熱狂はジャズセッションそのもの。およそ10分間(もともと潰すつもりで購入した)ドラムを叩きつづけた。現場ではとても10分程度とは思えなかっただろう(注2)。会場の大半の観衆はジャズは初めてだったはず。この後に山下洋輔(トリオ)のファンになった者も多い。演奏終了後の、筒井さんの疲れ果てた表情が印象的であった。

 豪華なパネルディスカッション。とはいえ、このクラスのメンバーは、まだ数年後までの大会ならば常連でもあった。招待さえすれば、喜んで来てもらえたのである(注3)。バーテン半村良がお酒を配ったりの趣向を交え、時間の制約(1時間)もあったため、各作家の意見を一通り聞くだけで終わってしまったが、重要なのは、ここで述べられた「SFの浸透と拡散」の意味付けだろう。それぞれの作家の作品は、もはやひとくくりではまとめきれず、しかし個別にマーケットを得るに至った。これが「浸透と拡散」である。ただし、「SFのハードコア」となるべき部分を捨て去ってはいけない。――この結論はあまり語られず、「浸透と拡散」のみが流布されている。筒井さんの締めくくりは、むしろSFハードコア重視にあったのだが。

 なにせ大量の人がいたために、サイン会(列を組んで並んでもらった)を含め、あまり参加者の自由になるものは少なかった。作家も楽屋裏か、ゲスト席のみしか出歩けず、不自由だった。それもこれも“前代未聞”の混乱を恐れたせいである。人員整理のコツが読めるようになったのは、会場キャパが増え余裕ができた後の時代からだ。

 最後は「スタア」である。これだけは、場内整理スタッフや、入場制限されていた来場者も見られるように配慮されたので、1000人以上の観衆がいた。「スタア」はこれまで、何回かの劇場公演、映画化もされたが、筆者の見た限りSHINCON版が最高の出来だったと思う。演技自体は、他の公演も優れていたかもしれない。観衆と一体となった盛り上がりで、SF大会の観衆を超えるものは少ないという意味である。お話自体についてはここでは触れない。舞台が終わり、筒井さんの閉会宣言でSHINCONは終了した。感涙のあまり言葉が出ない挨拶であった。

 さて、ここでSHINCONの意味を考えてみる。まず、この大会が通常の大会と違っていたのは、“一貫した物語”があった、という点である。開会挨拶から閉会まで、普通の名誉委員長ならば、お茶子やドラム叩きまではしない。2日間を筒井康隆尽くしとすることで、ドラマのようなSF大会が(無意識に)出来上がったのである。筒井さん自身、レポートの中でこう述べている。

 大会当日、実際にはぼくは、大会に振りまわされていた。そして、振りまわされているのを楽しんでいた。本当は、これこそがぼくの役割だったのだと知ったからである。来会者の眼に、いかに立役者として映ろうと、実際にはあやつられているに過ぎないという、あの何かのイヴェントや演劇等の際にはよく起こり得ることがぼくの身にも起こっていることをぼくは楽しんでいた。

 大会は2日間の演劇のように見えた。会場入り口で参加者を迎え、挨拶があり、落語の準備に登場し、ジャズを演奏、パネルの司会、スタア挨拶と切れ目なく登場することで、観衆と筒井さんとの距離が縮まり、主人公の行動に感情移入するような“物語”が現出した。そうであるが故に、SHINCONは唯一無二の大会となった。ショー型の大会は、COSMICON(注4)やDAICON4など、この後、いくつかあるが、それらとSHINCONとの最大の相違点は、まさにこの“物語”なのである。筒井康隆主体のイベントは、後にいくつか行われている(比較的最近では「断筆祭」等が有名)。あいにく筆者は参加していないので、その場の雰囲気は不明である。しかし、単に作家とファンではなく、幅広いSFファンと筒井康隆が一体化できたのは、おそらくSHINCONだけだろう。その意味でも、唯一無二といえる(注5)。レポートは次のように続く。

ぼくは幸福だった。この幸福をぼくに与えてくれた人たちに、また何かを返そうとすると、それはまた、SHINCON同様ふたたびぼく自身の幸福となってはね返ってくるに違いなく、それこそがSF界なのだ、とぼくは思った。

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注1:映画「ソラリス」を目玉に参加者700名を集めた。しかし、大会規模がSHINCONを上回ったのは、6年後の第19回大会TOKON7(参加者1300名)以降のことである。

注2:素人が全力でドラムを叩きつづけられる時間はせいぜい30秒だという。

注3:今現在でも、対応さえぞんざいでなければ可能と思われる。

注4:COSMICONは1977年の宇宙塵20周年を記念した催し(日本SF大会ではない)。小松左京、田中光二らプロ作家が中心になって、ある種のドキュメンタリタッチで作られた。SHINCONに一番近い大会である。しかし、これは良くも悪くもドキュメンタリ(ノンフィクション)であって、誰もが興味を持てる物語ではなかった。

注5:もう一つ付け加えておくと、第1回日本SF大会からSHINCONまでの13年間と、SHINCONから現在までの25年間(あるいは次章で書くDAICON5までの11年間でもよい)の社会/時代的変遷の差である。モノもなくカネもない60年代以前と、70年代以降では、全く別の時代といってもよい。SHINCONの時代には、確かにケイタイもパソコンもなかったが、戦後の色濃い50〜60年代よりも、時代の雰囲気は現在に近い。今SHINCONを見ても、ほとんど古びてはみえないだろう。

 

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