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NULLその後

 大会が終わった翌年の初め頃、NULL6号の編纂が佳境に入っていた。写真を多用した大会レポート特集号であると同時に、活版から写植に移行したため、段取りが違ったのである。写植自体は町の印刷屋にも導入されるなど、既に一般化していた(注1)。この号は、さまざまに凝ったため豪華版となった(注2)

NULL(No6)

 1976年2月に校正刷りも上がり、筒井さんの自宅で中身のチェックを行った。ここで問題がでてきた。南山宏「UFOよもやま話」のレポートがあまりに恣意的過ぎたのである。編集段階で、きつい言葉の3分の1は削ったが、まだレポートとして主観的にすぎる。これが有名な「UFOなんて嫌いだ」に始まる文書で、後大きな反響を呼ぶ。

 「やはり問題でしょうか」(筆者)
 (さらに数行を削った後)
 「しかし、角君がせっかく書いた文章なんだし」(筒井)

 筒井さんは文章を大切にするが故に、他人の文章であっても無下にボツにはしなかった。結局、原稿はトゲのみ削られて掲載された(注3)。しかし、南山宏さんからの抗議をはじめ、結果は厳しいものであった。毒は抜けなかったのである。筆者も山本事務局長から「なんでそのまま載せたんだ」と詰め寄られた覚えがある。もっとも、この号自体は好評だった。

 NULLを終えるにあたってもさまざまな反対があった。同年4月18日、最後のネオ・ヌル例会が行われた。この日については『腹立半分日記』に記載がある。

 ネオ・ヌルの例会に行く。同人誌ヌルの廃刊が発表されると、会員諸君ショックであった様子。他にこれというファンジンもなく、ネオ・ヌル以外のクラブに所属していない人も多かったので、気の毒であった。しかし、どうにもならない。

 実態からいえば、その日は多くの会員から抗議を受けた。筆者の編集方針にも原因がある。筆者自体、存続希望派だったからである。ただ、存続には大きな障害があった。ネオ・ヌルの場合、最大の呼び物は「応募作寸評」だった。応募作は号を経るに従って膨大に膨れ上がり、筒井さんの仕事を圧迫していった。これが、最大の原因である。大会のPR誌だから終わる、というだけではなかった。経費も会費では半分程度しかまかなえず、運営形態がいかにも不自然なままだった。とはいえ、「応募作寸評」もなく、「写植/活版」でもないものはヌルではない。そういう意味で、存続させる条件は、もはやなかったのである(注4)

(右)合本版NULL:限定番号入り

(左)最終号の表紙は1号と同じ(元クイーン神戸)若林さんだった。NULLの写真のモデルは7号を除いて全て20歳以下だった。

 

 

 翌年1977年4月にNULL最終号が出た(注5)。さらに1号から7号までを合本にした限定版が発行された(注6)。番号入りハードカバー、販売用100部(別に謹呈用の50部が作られた。100番以降の番号の本は非売品)限定だった。最終7号はベストメンバーである。堀晃、かんべむさし以外でも、作家になったという意味では、夢枕獏、山本弘、牧野修(当時は別名)、西秋生らの名前が見える。

 7号が出てしばらく後、筒井さんも交えた最後の打ち上げが三ノ宮の梅華(メイファ)であった(注7)。ジャズのライブ演奏をする店の2階席での会話は、しかし、もはや憶えてはいない。これで、SHINCONに伴うすべての行事は4年の時を経て終わったのだ。

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注1:NULLを写植化する時点では、筒井さんも活版にはこだわらなかった。講談社文庫が写植化されていたが、こちらの方が活版より読みやすいという読者が多くいたからである。当時の活版こだわり派の意見は、写植文字は平板すぎてメリハリがない、というものだった。実際写植はオフセット(平板)印刷なのである。

注2:ネオ・ヌルについては「熱気は感じるが、昔のデザインセンスがない」(某作家)という批判があった。6号はそれを意識して、表紙2色刷/ビニル貼(つやつやした表紙のこと)、見返し付、大会レポート部分はコート紙と、デザイン面を中心に大幅に改良した。それでも印刷費は35万と、活版に比べてさほど高くない水準に押さえている。しかし、筆者はこれらを独断で進めたため、「恐怖の浪費編集者」とか、「目的のために他人の財布を選ばない編集者」という風評を生んだ。その性格は今でも変わりませんが。

注3:この事件はレポーターの名を高める結果にもなった。筆禍は収まらず、奇想天外誌にも座談会が載った「Orbit筆禍事件」(ファンジンOrbitで、編集人だった角伸一郎が横田順彌らを酷評したことに端を発する論争。『日本SF論争史』(勁草書房)の年表28ページにも載っている)がクライマックスとなる。これは1979年の出来事。余談だが、同事件の翌年、筒井さんから伊藤典夫さんに宛てた年賀状には、「角伸一郎は破門しました」と書かれていたという。角伸一郎(=水鏡子)はファン兼セミプロとしてエスタブリッシュしていたため、本来関係ないはずだが、いかに気にしていたかがわかるエピソードではある。

注4:筆者も同人から「お前が引き継いで出したらどうか」と言われた。しかし、筆者にとっても、NULLはあくまでも形態が伴ってこそNULLなので、形のない継承は意に添うものではなかった。

注5:この号は共同編集となっている。6号筆禍事件の責任を取らされ、筆者はクビになった。といっても、7号も実際の編集は筆者がほとんど一人でやっている。名目だけのことであった。ただ、以後の奇想天外のネオ・ヌル特集をはじめ、単行本「ネオ・ヌルの時代」等は全くタッチしていない。

注6:このうち1号は在庫がなく、刷り直されたもの。他は在庫を製本したものだった。6000円だったが完売したはずである。

注7:これも『腹立ち半分日記』に記載がある。話は違うが、同年の8月には小松左京さんが主催する「大フィル祭り」が企画され、筆者はそれにも狩り出されて企画を担当させられている(SFとは関係ないが、小松、眉村が参画)。大フィルとは大阪フィルハーモニーのことで、小松さんは活動を後援するメンバーだった。COSMICONも同年にあったので、小松さんもコンベンションづいていた。大フィルはDAICON4が目玉にしたが、小松さんとの関係があって初めて可能になった企画だ。

 

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